【高校野球企画】Youthful Days ~まだ見ぬ自分を追いかけて~ vol.6 松井裕樹投手[東北楽天]

氏原英明

2018.8.20(月) 09:00

東北楽天・松井裕樹投手【イラスト:横山英史】©Rakuten Eagles
東北楽天・松井裕樹投手【イラスト:横山英史】©Rakuten Eagles

第100回全国高等学校野球選手権記念大会が開幕した。今年も甲子園で高校野球の頂点を巡り、激闘が繰り広げられている。夢見た舞台へ辿り着くために、球児たちはどれだけの鍛錬、挑戦、葛藤を積み重ねているのだろうか。現役プロ野球選手の高校時代を振り返る連載第6回は、甲子園で全国の猛者を撫で切った松井裕樹投手(現東北楽天)。プロではブルペンを主戦場に、当時と変わらない躍動感を一身にみなぎらせる。左腕を球界屈指のリリーバーに押し上げたのは、快速球と鋭い変化球、そして進化を追い求める心。いずれも激戦区を勝ち抜くための日々に磨き上げたものだ。

快刀乱麻のピッチングで「K」の山を築く

スポーツの報道において数字は重要だ。数の多寡は分かりやすく選手の良し悪しを表現するし、昨今はデータを集積して選手の特徴をあぶり出すなど、スポーツ報道に数字は欠かせない。

ただ、その数字だけを追いかけすぎると、時に、選手を追い詰める。大記録などめったに生まれない数字に近づくと、メディアはその数字を追いかけることに躍起になり、結果として、高校生にもプレッシャーをかけることにつながるからだ。

2012年夏、桐光学園高校の2年生エースとして1試合22奪三振の全国高等学校野球選手権大会記録を樹立した松井裕樹投手(現東北楽天)は、この偉業で一躍スターダムにのし上がった一方、大きな十字架を背負う高校生活を送った。

「甲子園の長い歴史の中に、自分の名前が残るのはプレッシャーを感じますが、歴史に恥じないピッチングをこれからもしていきたい」

大記録達成直後に松井投手が発したその勇ましい言葉は、彼の強気な姿勢に感じたが、同時に「松井と奪三振数」は切り離せられないものになった。大記録を達成したことがさらなる期待を呼び、2桁奪三振が当たり前になり、9奪三振では不調と騒がれる。松井投手はメディアからのプレッシャーと戦わなければならなくなったのだ。

とはいえ、当時のメディアが松井投手の奪三振数を追いかけたくなったのも無理はない。それほど、あの大記録達成の際のピッチングはすさまじいものだったからだ。

豪快に右足を挙げるダイナミックな投球フォームで、体重移動の際には左肩を下げる“ショルダーステイ”を維持して打者に向かう。ため込んだパワーを右足の股関節にぶつけるようにして間をつくり、腕を思いっきり振る。

140キロ台後半のストレートは懐に、あるいは高めに投じ、スライダーは低めに落とす。コンビネーションはまた見事で、バッタバッタと三振を量産した。実際に冷静に見ているとボール球なのだが、高低を使い分けているから打者のバットが止まらないのだ。

正真正銘の「ドクターK」だった。そのように騒がれる投手は、甲子園では珍しくない。松井投手が登場する以前にも、「みちのくのドクターK」や「北陸のドクターK」など、地区大会で多くの三振を取った投手はそう騒がれたものだった。

そうした投手が評判倒れに終わることも少なくない。松井投手が激戦区の「神奈川のドクターK」だったとはいえ、彼の登場に特別な印象を持たなかった人も多かった。

しかし、松井投手は違った。前出の1回戦・今治西高校戦では10者連続を含む、22奪三振。2回戦の常総学院高校戦でも19奪三振を挙げている。1回戦に比べて数は減ったのだが、そもそも19個の奪三振は松井投手が1回戦に大記録を達成するまでの最多記録(9回)であったのだ。

この大会では準々決勝で敗退したものの、大会トータル68奪三振をマーク。大会史上3位の記録で、左腕投手としては最多の記録だった。

だが、松井投手の本当の戦いはここからだった。秋の神奈川県大会では準々決勝の平塚学園高校に敗退。松井投手は12奪三振を奪ったものの、2失点が致命的となり、敗戦投手となってしまったのだった。

三振の数が必ずしも勝利を約束するものではない。だが、松井投手が三振を取れば、メディアは騒ぐ。勝利に関係なく、だ。そのギャップが本人を苦しめた。

最終学年は甲子園出場を逃すも、投手として成熟

松井投手は三振を取るのがうまかった。タイプと言えばいいのかもしれない。例えば、試合を見ていると顕著だったが、カウントを追い込むまでと追い込んでからのマウンド上の立ち振る舞いがまるで違っていたのだ。追い込むと必ずギアが上がる。

「三振にこだわっているわけではなくて、取れるときに取れればいいくらいに思っています」

松井投手はそう語っていたが、三振にこだわっていないようで、体は欲していたというわけである。そんな松井投手は3年春になると、ピッチングスタイルを変えた。前年まで三振を取りまくったストレートとスライダーを見せ球にして、カーブでカウントを整え、チェンジアップを勝負球に持っていくようになったのだ。この2つの球種はもともと持っていた球だったが、磨きをかけることでモデルチェンジを図ったのである。

世間は三振数に騒いだものだったが、松井投手は「勝てる投手」を目指すべく、新境地を見出そうとしていた。夏の大会が始まったころ、桐光学園高校の野呂雅之監督が手ごたえをこう口にしていた。

「今大会の松井のテーマはいかに『松井=三振』を払しょくするかだと思っています。夏の戦いを考えた時に、三振ばかり取っても後に響いてきますから」

松井投手を一人のピッチャーとして一回り大きくさせる。指揮官はそんな想いだったに違いない。事実、夏の神奈川県大会の初戦・相洋高校戦では違ったスタイルで勝利を挙げた。

1回表、相洋の先頭打者を三振に斬って取ったが、スライダーは1球も投げなかった。ストレートを多投し、チェンジアップを挟んだ。1イニングを通してもスライダーは1球しか投げなかった。試合は同点で推移したのだが、圧巻だったのは6回表だった。今度はスライダーを多投して3者連続三振に斬ったのだ。

つまり、松井投手は三振の取り方を頭では描きつつ、すべての打者にそれを出すわけではない大人びたピッチングをみせたのだ。9回で被安打7、9奪三振。1試合トータルでピッチングをクリエイトする松井投手がそこにはいた。

もっとも、この年、松井投手は甲子園出場を逃している。準決勝の横浜高校戦で、淺間大基選手、高濱祐仁選手(ともに現北海道日本ハム)にスタンドに叩き込まれて、3失点で敗北を喫した。チェンジアップの抜け球を仕留められての敗戦だった。

「調子は悪くなかった。でも、負けたら意味がない」と試合後にはむせび泣いた松井投手ではあったが、「松井=三振」という十字架を背負わされながら、悩み、奮闘して成長した姿は彼が大記録達成から得たものだった。

松井投手は同年秋のドラフト1位で東北楽天に入団。1年目はプロの壁にぶち当たったものの、2年目のキャンプ中にリリーバーに本格転向。持ち前の高い奪三振率を生かすピッチングでクローザーに昇格した。3年目もそのままクローザーとして君臨しリーグを代表するまで成長を遂げた。

松井投手がプロになって打者を牛耳ったのは、高校時代に大記録を樹立した際の代名詞だったスライダーではなく、チェンジアップだった。苦悩した1年間で身に着けた、第3の球種が彼のプロでの代名詞になったことは、松井投手が記録に追いかけながら見出した新たな投手像に他ならなかった。

筆者は2013年当時、松井投手の1年間を振り返る記事を寄稿した。甲子園出場を逃した横浜高校戦のピッチングをやや大げさにこう表現した。

「松井裕樹、未来につながるピッチング」――。

大記録に追いかけられながらの松井投手が高校生活で得たものは大きかった。

【高校野球企画】Youthful Days ~まだ見ぬ自分を追いかけて~
vol.1 浅村栄斗選手[埼玉西武]
vol.2 上林誠知選手[福岡ソフトバンク]
vol.3 金子千尋投手[オリックス]
vol.4 平沢大河選手[千葉ロッテ]
vol.5 中田翔選手[北海道日本ハム]
vol.7 西川遥輝選手[北海道日本ハム]
vol.8 T-岡田選手選手[オリックス]
vol.9 田村龍弘選手[千葉ロッテ]
vol.10 今宮健太選手[福岡ソフトバンク]
vol.11 今江年晶選手[東北楽天]
vol.12 菊池雄星投手[埼玉西武]

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氏原英明

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