【高校野球企画】Youthful Days ~まだ見ぬ自分を追いかけて~ vol.5 中田翔選手[北海道日本ハム]

氏原英明

2018.8.17(金) 09:00

北海道日本ハム・中田翔選手【イラスト:横山英史】©H.N.F
北海道日本ハム・中田翔選手【イラスト:横山英史】©H.N.F

第100回全国高等学校野球選手権記念大会が開幕した。今年も甲子園で高校野球の頂点を巡り、激闘が繰り広げられている。夢見た舞台へ辿り着くために、球児たちはどれだけの鍛錬、挑戦、葛藤を積み重ねているのだろうか。現役プロ野球選手の高校時代を振り返る連載第5回は、聖地で投打共に圧倒的なインパクトを残した中田翔選手(現北海道日本ハム)。恵まれた身体だけでなく、豊かな感性を併せ持った逸材の将来に、多くの野球ファンが夢を見た。プロでは一太刀での勝負を決断し、4番に座って打点王を2度獲得。浪漫の詰まったバッティングで、北の大地を熱くさせる。

「平成の怪物×昭和の怪物」のスケール感

時代が違っていればと、今さらながらに思う。北海道日本ハムの主砲・中田翔選手の大阪桐蔭高校時代を振り返るたびに、想起するのはチームの後輩で投打の二刀流に成功し、今季からメジャーリーグへと渡った大谷翔平選手(エンゼルス)だ。というのも、大谷選手が高校野球界に登場するまで、投打(二刀流)の怪物として甲子園を最も沸かせたのが中田選手であるからだ。

150キロのストレートを武器に、スライダー、カットボール、カーブ、シュートなど多彩な変化球を投げた。投球以外の動作も抜群でクイックは平均1.1秒を計測し、けん制で走者を刺すことも多く、フィールディングのうまさも秀逸だった。打撃面でも、豪快なフルスイングで本塁打を量産した。やや左脇が開く癖はあったものの、豪快かつ懐は深く、広角へ本塁打を打てる才能の持ち主だった。

「投げて松坂大輔、打って清原和博」という当時の評価は、決して大げさなものではなかった。

高校1年夏の甲子園デビューからしてすさまじいインパクトだった。チームにはエース・辻内崇伸氏(元巨人)、4番に平田良介選手(現中日)が君臨していたが、1回戦・春日部共栄高校戦で、1年生にして「5番・ファースト」でスタメン出場すると、中田選手は2人を凌駕する活躍を見せたのだ。

1打席目に初安打初打点をマークすると、5回途中から乱調の辻内氏を救援。148キロのストレートでぐいぐい押し、相手の流れを断ち切った。7対7で迎えた7回裏には左中間スタンドに勝ち越し本塁打を叩き込んだ。投打でハイレベルな才能を見せつける姿に、とんでもない怪物の登場を予感したものだった。

「うちに入学した投手の中では間違いなくNO.1」
「パワーなら、一番の打者です」

大阪桐蔭高校・西谷浩一監督は投打の中田選手をそう評したものだった。

高校2年春には選抜高等学校野球大会出場を逃したものの、冬の間に体づくりに成功して、中田選手のストレートは150キロを超えた。ところが、春季大阪府大会中に右肘を負傷。全力投球ができなかったことで、夏までは打者に専念。ここから恐ろしいほど、打者としての才能が開花していった。

2年夏の大阪府大会では5本塁打をマーク。この記録は、清原和博氏、福留孝介選手(現阪神)に並ぶ記録だった。そして、甲子園では1回戦の横浜戦でバックスクリーン横に飛び込む140メートル弾を放り込んだ。高校生の打球ではなかった。その場にいた者達は、スラッガー中田の才能の開花を見たものだった。

とはいえ、この大会は2回戦で早稲田実業高校の斎藤佑樹投手(現北海道日本ハム)にひねられた。4打席で3三振を喫し、技術の無さを露呈しながら、1年間の雌伏がまた彼を大きくさせた。

もっとも、当時の本人は投手を志望しており、秋からは徐々に投手として復帰を果たす。本塁打を量産し始めていたが、中田選手はあまり興味を示さなかった。秋の大阪府大会を準優勝して迎えた近畿大会1回戦・天理戦では12個の三振を奪う好投を見せて、投打の怪物はエンジン全開だった。

堂々たる体躯に秘められた豪快と繊細

翌春のセンバツでは、初戦の日本文理高校戦に先発して7回無失点でチームを勝利に導くと、2回戦の佐野日大高校戦では外野手として出場し、自身初となる2打席連続本塁打を記録した。準々決勝の常葉菊川高校には1対2で敗戦したものの、中田選手は先発して9回を被安打7、2失点と好投した。

ただ、この時点での中田選手は、打の方に分があった。右肘の状態が完璧ではなかったのもあったが、投手を休んでいる間にスラッガーの体型に変化してしまったことも理由かもしれない。「左の腰が切れなくなった」と後に話していたことがある。

それでも、中田選手の投手としてのセンスには光るものがあった。先述したようにスピードボールを投げられただけでなく、変化球を多彩に操った。クイックが恐ろしく速く、けん制のテクニックがあった。そして、投手としては実に繊細で、自身の将来像をイメージできるほどだった。西谷監督が驚きのエピソードを語っていたことがある。

「中田が高校1年生の時に、スライダーを禁止しようと、本人に伝えたんです。スライダーの投げすぎは肘が下がるから、と。すると中田は『スライダーを投げた後に、肘が下がるかどうかが問題なので、スライダーを投げていかないと、その変化が分からない。だから僕は投げたいです』と返してきたんです。スライダーを投げたら肘が下がるというのを気にする投手は今までもいましたが、それはたくさんのことを経験した上級生になってからがほとんどなんです。でも、中田は1年の時から、そのイメージをしていた。こんなピッチャーには出会ったことがないと思いました」

ところが、本人の気持ちとは裏腹に、評価が上がっていったのは「打者・中田」だった。当時の高校通算本塁打を更新した(87本)という事実もあったし、やはり大人びた打球を見れば、打者を推したくなるのも無理はなかった。
 
3年夏、中田選手は甲子園出場を逃す。後に千葉ロッテに在籍する、金光大阪高校の植松優友氏との投げ合いに敗れたのだ。試合後、中田選手の言葉に、多くのメディアは注目した。高校卒業後にプロに行きたいことは誰も知っていたが、投手なのか、打者なのかの答えが見えていなかったからだ。大会前には打者としての挑戦をほのめかしただけに、気になるところだった。

この先はピッチャーとバッター、どちらで挑戦しますか? 中田選手はそう聞かれると、こう答えたのだった。

「両方やりたいです」

中田選手が投手をやりたいことは当時の中田番の多くが知っていた。筆者もその一人だった。だから、彼の下した決断には少し安堵したものがあった。

しかし――。ドラフト前、中田選手は撤回した。打者での挑戦を表明した。ある日、この決断のことを中田選手に尋ねた。投手への未練はないのかと。

「投手をやりたい気持ちもあったんですけど、怪我の不安もあった。投手をやって怪我をしてから打者に転向すればいいという考えもありますけど、僕の性格からすると、投手ダメだったからって切り替えることはできないなと。それで、評価してもらっている打者一本でと思いました」

2013年、プロ野球シーンに投手をやり、打者もやる選手が登場した。それが、大谷選手だった。2007年以前、「二刀流」が誰かの手によって果たされていたなら、どうなっていたのだろうか。

中田選手にも大谷選手のような夢が見たかった。

【高校野球企画】Youthful Days ~まだ見ぬ自分を追いかけて~
vol.1 浅村栄斗選手[埼玉西武]
vol.2 上林誠知選手[福岡ソフトバンク]
vol.3 金子千尋投手[オリックス]
vol.4 平沢大河選手[千葉ロッテ]
vol.6 松井裕樹投手[東北楽天]
vol.7 西川遥輝選手[北海道日本ハム]
vol.8 T-岡田選手選手[オリックス]
vol.9 田村龍弘選手[千葉ロッテ]
vol.10 今宮健太選手[福岡ソフトバンク]
vol.11 今江年晶選手[東北楽天]
vol.12 菊池雄星投手[埼玉西武]

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氏原英明

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