第100回全国高等学校野球選手権記念大会が開幕した。今年も甲子園で高校野球の頂点を巡り、激闘が繰り広げられる。夢見た舞台へ辿り着くために、球児たちはどれだけの鍛錬、挑戦、葛藤を積み重ねているのだろうか。現役プロ野球選手の高校時代を振り返る連載第1回は、今から10年前の記念大会で全国制覇を果たした浅村栄斗選手(現埼玉西武)。17年ぶりに「深紅の大優勝旗」を持ち帰った大阪桐蔭高校の牽引車は、プロ入り後も攻守に磨きをかけて、打点王を獲得するなど勝負強い打撃で打線を引っ張っている。成長を促す向上心の中核にあるのは、名門校で味わった酸いと甘いだ。
指揮官の叱咤と心に響いたOBの発破
あの夏がなかったら…。プロ野球で活躍する選手の中には、高校時代のひと夏の経験がプレイヤーとしての可能性をワンステップ高めることがある。
現在、パ・リーグ首位を走る埼玉西武のキャプテンを務める浅村栄斗選手がその一人だ。ちょうど10年前の第90回全国高等学校野球選手権記念大会に出場した大阪桐蔭高校の「1番・ショート」だった浅村選手は、チームを17年ぶりの優勝に導いただけでなく、選手としての価値を高める活躍を見せた。
「自分の力を発揮することだけでしたね。優勝を目指すというよりも、目の前の試合を確実に勝っていこうと。プレーに関しても、引いてやるんじゃなしに、どんどん自分を出していこうと考えていました」
2008年夏、浅村選手は優勝を決めたとき、そう語っていたものだった。とはいえ、大阪桐蔭高校に入学してからの浅村選手は決してエリート街道を突っ走ってきたわけではない。守備面では派手な好プレーを見せる一方、気を抜いたような軽率なエラーも度々する。好不調の波が激しく、西谷浩一監督は高卒でプロに行く選手だと思っていなかったと、こう語る。
「浅村にはお兄ちゃんがいて、最後の夏にはメンバーに入れなかったんですけど、すごく努力した、いい選手でした。浅村本人はいい選手だなとは思いましたけど、スターではありませんでした。だから、僕の中では『(努力家の)浅村の弟』というふうに見ていましたね。しかし、実際はお兄ちゃんとは正反対でした。プレー面では華があるところを見せるんですけど、ポカが多かったんです。練習の姿勢も根気がなく集中が続かない。そういうのが試合でのプレーにも出ていました」
西谷監督は浅村選手を叱り続けたという。1年秋から頭角を現し、将来を見据えてベンチ入りする機会を与えたものの、軽率なプレーが目につき、厳しい選択をせざるを得なかった。浅村選手の1学年上は中田翔選手(現北海道日本ハム)、岡田雅利選手(現埼玉西武)らタレントそろいの世代で、2007年の選抜高校野球ではベスト8入りを果たしている。そんな中にあって、浅村選手はベンチにすら入れなくなっていたのだ。
能力はあるものの、自分で限界をつくり努力をしようとしない。当時のチームには浅村選手と同じポジションの選手が主将だったこともあり、最初からレギュラー獲りを諦めてしまっていたのだ。浅村選手の姿勢に「ベンチに置いておくより冷や飯を食べさせた方がいい」という選択を、指揮官はしたというわけである。
センバツが終わると、西谷監督は浅村選手を積極的に練習試合などで抜擢した。彼のモチベーションを高めるために、あえて主将がいたショートのポジションに起用することで奮起を待ったのだった。最終的にショートのレギュラーにはなれなかったものの、水を得た魚のように躍動した浅村選手は2年夏の大阪府大会では背番号「14」ながらセカンドのレギュラーを獲得。同大会では打率5割を超えるハイアベレージを残したのである。
翌年のドラフト候補と騒がれるようになったのは、このころからだった。しかし、そんな周囲の期待をよそに、西谷監督はその時点でも浅村選手を高く評価はしていなかった。チームの主軸として据えてはいたが、高卒でのプロ入りを口にする浅村選手の言葉と行動がつながっていないと、厳しく接したという。西谷監督はこう回想している。
「当時の浅村は取り組む姿勢が甘かったんです。良い練習をしているなぁっていうのが続かない。でも、本人に進路志望を聞けば『プロ』という。だから、きつく言うときもありました。『プロに行きたいって、それはプロ野球選手に失礼や。お前のような姿勢の取り組みでプロに入れたら、誰でも入れる』と。それでも変わりそうになかったんで、西岡剛(現阪神)がオフにグラウンド来た時に、一言言ってもらったんですよ。『プロ目指しているらしいやん。さっき見てたけど、プロなめんなよ』と。その時から浅村は一気に変わりましたね」
反骨心に火がついて、名実ともにチームリーダーへ
現役プロの言葉が強烈だったのだろう。一冬をこえて3年春を迎えると、浅村選手は一気に成長した姿をみせた。副キャプテンに任命され、打順も3番から1番に変わった。春の大阪府大会を制して、チームを引っ張る存在となったのだった。浅村選手の変化は当時の彼の言葉からも読み取れる。
「1番になったんで、(気持ちが)引かないようにしてプレーしたいなと思います。自分が1打席目から打つことによって、この投手は打てるというのをチームに知らせる役割をしていきたいと思います」
そんな浅村選手が最も輝いたのは、夏の北大阪大会を制して臨んだ甲子園での2回戦・金沢高校戦だ。試合は序盤にリードしたものの、4回に逆転を許す苦しい展開。6回からは1点ビハインドで進み、8回裏2死走者なしで浅村選手に打席が回ってきた。この窮地ともいえる場面で、浅村選手は初球を一閃、左翼スタンドに放り込んだのだ。それまであまり感情を表に出すタイプではなかったが、バットを振りぬいた瞬間に激しくガッツポーズと雄たけびを上げたシーンは彼の存在感をチーム内外に示すものだった。
この試合を延長戦の末に制した大阪桐蔭高校は、そのまま頂点まで駆け上った。3回戦の東邦高校戦を打撃戦で制すると、準々決勝は報徳学園高校、準決勝戦では横浜高校といった名門校を撃破。決勝戦で常葉菊川高校を17-0の大差で制し、優勝を果たしたのだった。
浅村選手は「1番・ショート」として、29打数16安打2本塁打の活躍。ほとんどすべての打席で初球を振りに行っていたのが、彼のプレースタイルを如実に表していた。守備面でも、彼の華美なプレーは観衆を何度も湧かせたものだった。
同年秋のドラフトで埼玉西武から3位指名を受けた。プロ入り後の活躍は周知のとおりである。まさに、あの夏で一気に評価を高めた選手だった。中日の関西担当スカウト・米村明氏が恨めしく、こんな話をしていたことがある。
「浅村は桐蔭のグラウンドに行くと、才能は輝いていた。走・攻・守で光るものを見せていたけど、でも、試合ではまったく結果を残すことができなかったんです。甲子園を迎える前の時点で、『能力は申し分ないけど、試合では力を発揮できないタイプ』なのかなぁと。甲子園でようやく結果を出したけど…遅かった」
人生はどこでターニングポイントを迎えるのかは分からない。浅村選手は2年春までは好不調の波が激しい不安定な選手だった。ただ、指揮官から叱責を繰り返し受けてきた中で、内に秘めたるものがあった。それが最後の最後に開花した。浅村選手がプロ入り直前に語っていたことが頭に残っている。
「絶対、(西谷監督を)見返してやると思っていました。ずっとプロは無理だって言われて続けていたんで、プロに行って、僕が活躍する姿を監督に見せてやりたいと思います」
浅村選手はプロになった今でも、雄弁に語ることはそう多くない。ただ、胸の中にある想いは周囲が想像する以上に強く、そして、それを結果で見せることができるのは彼のプレイヤーとしての能力の一つでもあるだろう。
あの夏、人生を変えた彼の活躍を思い出すたびに、そんなことを思い出す。
【高校野球企画】Youthful Days ~まだ見ぬ自分を追いかけて~
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vol.3 金子千尋投手[オリックス]
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vol.7 西川遥輝選手[北海道日本ハム]
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