「幕張の安打製造機」をはぐくんだ、山本元監督との師弟愛

パ・リーグ インサイト マリーンズ球団広報 梶原紀章

2016.4.28(木) 00:00

千葉ロッテマリーンズ・福浦和也選手 ※球団提供
千葉ロッテマリーンズ・福浦和也選手 ※球団提供

その光景は今も目に焼き付いている。初めての一軍昇格が決まった時。朝一番の飛行機で二軍の遠征先の秋田から羽田空港に移動することになった。ホテルのチェックアウトを済ませ荷物を抱え、出発をしようとすると、ロビーに二軍監督の姿があった。「頑張ってこいよ」。力強く肩を叩かれ、若者はタクシーに乗った。手を振り、姿が見えなくなるまで見送ってくれた。あれから月日は流れた。当時、二軍監督を務めた山本功児氏は2016年4月23日、64歳でこの世を去った。初の一軍に、ほとんど寝ることもできずに出発をした福浦和也内野手はあの日から1912本のヒットを放っていた。

「思い出はありすぎるなあ。初めて一軍に行く時にわざわざ朝早くからロビーで待って、見送ってくれたこと。よく怒られたし、打撃でも守備でもいろいろと指導をしてもらった。なによりも投手から野手への転向を勧めてくれたのが山本さん。今の自分があるのはあの人のおかげ。恩人だよね」

ロッテ浦和球場のロッカールーム。福浦は誰に話しかけるわけでもなく、つぶやいた。いろいろな思い出の残るその場所で、遠い昔を振り返った。1年目のこと。二軍キャンプが終わり、浦和球場に戻った時、当時は二軍打撃コーチをしていた山本氏に声をかけられた。「打撃の才能がある。野手をしないか」。最初は冗談だと想い、愛想笑いでごまかしていた。だが、目が合うたびに声を掛けられ、本気だと知った。「オレはピッチャーをやりたかったから、断り続けていたよ」。しかし、最後はその熱意に押された。練習の合間の休憩時間に声を掛けられ、試しにと打撃ケージ内で打った。それをじっと観察をしていた二軍首脳陣は決断を下した。福浦和也は投手から内野手となった。プロ一年目のオールスター休み明けから野手としての日々が始まった。

「とにかく練習をした。山本さんに、させられたというのが正しいけどね。あの時は本当にバットを振ったなあ」

プロ野球は二軍とはいえ、投手から転向した打者がすぐに通用するほど甘くはない。本人が振り返るように練習の日々が始まった。チーム全体練習前に朝練の特打。試合後も特打。寮に戻ってもバットを振った。遠征先での試合を終えヘトヘトに疲れて寮に戻ってきた際も室内で特打を命じられた。野手としての遅れは歴然。少しでも一人前になるべく、とにかくバットを振った。いつも側には山本氏の姿があった。

しかし、それでもなかなか打てなかった。二軍での初ヒットは1年目(1994年)のイースタン・リーグ最終戦となった10月8日。忘れもしないベイスターズ球場での横浜ベイスターズ戦だ。マウンドにはプロ初打席でも対戦した友利結投手。ストレートに振り遅れないように、早めにバットを始動させた。打球は右中間を抜けていった。二塁打になった。観衆はほとんどいない。だが、この1本が忘れられない。やれるという確信を持てるほどの一打ではない。でも、確かになにか打者としての一歩目を踏み出せた気がした。そんなヒットだった。

そして4年目の1997年7月4日の夜。秋田遠征中の宿舎で二軍監督になっていた山本氏から「明日から一軍だ」と言われた。急な招集に驚いた。夜も寝られないほど緊張した。いったんは布団に入ったが、ダメだった。だからバットを握った。二人部屋だったため、部屋の明かりはつけずに真っ暗の中、振り続けた。山本氏の教えを思い出すように打撃のポイントを確認し、深夜にようやく眠りについた。翌5日、マリンのデーゲームに間に合わせるため、早朝に身支度をし、ロビーに向うと、山本氏がいた。野手への道を作り、毎日、指導をしてくれた人がこんなに早い時間にわざわざ見送りに来てくれたことが身に染みた。活躍を誓い空港へ向かった。

羽田からタクシーに飛び乗り、マリンに到着したのはチームの全体練習が終わる寸前だった。バタバタと練習を済ませるとこの日のオリックス戦、7番一塁でスタメン出場を言い渡された。4回にフレイザーから初ヒット。インコースのスライダーに詰まった当たりはポトリとセンター前に落ちた。記念すべき一軍でのプロ初ヒットだった。2000本安打を目前に控える男の伝説はここから始まった。

「最近は連絡を取る機会もなかった。電話では何度かお話をしたけど、最後にお会いしたのは山本さんが巨人のヘッドコーチを務められていた時の交流戦だね」

強烈に残る山本氏の記憶が福浦にはある。一軍監督退任が決まった03年10月12日のシーズン最終戦。本拠地マリンでの試合には3万人の観衆が詰めかけた。オリックスに5対1で勝利。試合後、「山本マリーンズ」の地鳴りのようなコールが響き渡った。選手たちは当初の申し合わせ通り、ユニホームを脱ぐ監督を胴上げしようとした。しかし、山本氏は固辞した。強く断った。そして選手たちの輪の真ん中で「胴上げは優勝をして、次の監督にやってあげてくれ。ありがとう!」と涙ながらに頭を下げた。それから2年後の05年。マリーンズは日本一になり、ボビー・バレンタイン監督が宙に舞った。

「あと何年、現役があるかは分からないけど、オレの野球人生の最後まで見届けてほしかった。寂しい。天国で見守ってほしい」

福浦は40歳になった今も精力的に体を動かし、バットを数多く振る。その打撃は二人三脚で特打を繰り返したあの時の練習が土台となっている。2000本安打まであと88安打。恩師や支えてくれた人たちのために福浦はバットを握る。恩返しの日々はまだまだ終わらない。

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