千葉の誇り・福浦和也。マリーンズ一筋26年、数々の名場面を振り返る(前編)

2019.9.23(月) 08:30 パ・リーグ インサイト 望月遼太
マリーンズ・福浦 通算2000安打までの軌跡
マリーンズ・福浦 通算2000安打までの軌跡

 9月23日、千葉ロッテ・福浦和也選手の引退セレモニーが開催される。地元・千葉県出身、千葉県の高校からマリーンズに入団して以降、一度も移籍を経験することなく野球人生を送ってきた、いわゆる再狭義のフランチャイズプレイヤーだ。球団史上最多の2234試合に出場し、生え抜きとしては球団3人目の2000本安打も達成。2005年と2010年の日本一にも主力として大きく貢献した、まさしく球団史に残る偉大な選手の一人だ。

 今回は、そんな福浦選手の功績をたたえて、千葉ロッテ一筋26年の現役生活を送った福浦選手が長い現役生活を通じて見せてくれた名場面の数々を、あらためて振り返っていきたい。その前編となるこの記事では、2010年までに生まれた印象的なシーンを紹介していきたい。

※後編(2011年以降)はこちら

プロ入り初のサヨナラ打(1997年7月15日)

 7月5日にプロ初出場で初安打を放ってからわずか10日後となる7月15日、当時21歳の若武者に大きな場面で打席が巡ってきた。同点の延長11回裏2死満塁。マウンドに立つ日本ハムの投手は、後に千葉ロッテで福浦選手と同僚になる黒木純司氏だった。試合を左右する場面で打席に立った福浦選手は黒木氏の投球を鮮やかにレフト前へとはじき返し、試合を決めるサヨナラ安打を記録した。

 直後に一塁ベースを回ったところで先輩たちから手荒い祝福を受け、笑顔でグラウンドに転がっていた福浦選手。後に球団最多記録となる12本のサヨナラ打を記録する「サヨナラ男」にとって、この試合がまさにその始まりを告げる一戦となった。この年、福浦選手は67試合の出場でプロ初本塁打を含む6本塁打、打率.289。持ち前の打撃センスの一端を示し、翌年以降のレギュラー定着へとつなげていく。

イチロー選手の渡米後最初のシーズンに首位打者を獲得(2001年10月2日)

 1994年から2000年まで7年連続でパ・リーグの首位打者に輝いたイチロー氏の米球界挑戦により、打率ランキングのトップを独占し続けていた天才打者が不在となった2001年のパ・リーグ。注目が集まったのは、どの選手が次なる首位打者の座に輝くのかだった。2000年に過去最高の打率.296という数字を残していた福浦選手は、2001年についにその才能を完全開花。自身初の打率.300というハードルを大きく飛び越し、新時代のリーディングヒッター争いに堂々と加わっていく。

 福浦選手は7月まで打率.340~.350の高打率をキープし続け、小笠原道大氏(当時日本ハム)や松中信彦氏(当時福岡ダイエー)と熾烈な首位打者争いを繰り広げる。だが、8月に月間打率.256と調子を崩し、8月末の時点で打率は.327に下降。この時点では、月間打率.407と絶好調で、打率を.341に上げた小笠原氏とは大きな差がついていた。しかし、福浦選手は9月の23試合で39安打、月間打率.411と猛チャージ。一気に小笠原選手を上回り、リーグトップに立った。

 奇しくも10月2日のシーズン最終戦は千葉ロッテと日本ハムの“直接対決”となったが、その時点で福浦選手の打率.345に対し、小笠原氏は打率.338と7厘の差がついていた。最終戦では福浦選手、小笠原氏がともに2安打ずつを放ってシーズンを締めくくり、福浦選手の首位打者が確定。21世紀最初の年、イチロー氏が抜けた後の最初のシーズンに栄冠を手にした福浦選手は、この年から6年連続で打率.300を記録。リーグ屈指の好打者としての地位を確立していった。

プロ野球史上2位のシーズン50二塁打を確定させたサヨナラ打(2003年10月5日)

 プロ生活を通じて記録してきた388本の二塁打は歴代18位の多さ。福浦選手にとって、鮮やかに外野の守備を破る二塁打は代名詞の一つとなっている。現役通算の盗塁数はわずか10個と決して俊足とはいえないが、卓越したバットコントロールで外野の間を割り、あるいは左翼線や右翼線に運んで、二塁へと到達する。そんな福浦選手の真骨頂が発揮されたのが、2003年のシーズンだった。

 2001年には谷佳知氏がシーズン52二塁打という日本記録を樹立していたが、2003年の福浦選手もそれに勝るとも劣らないペースでツーベースを量産していく。この年に記録した二塁打の方向を見てみると、右翼方向が10本、右中間が5本、中堅方向が7本、左翼方向と左中間がそれぞれ14本ずつと、逆方向への二塁打が多くなっていることがわかる。まさに、広角に打球を打ち分ける福浦選手の真骨頂が発揮されたシーズンと形容できる。

 そして、シーズン二塁打49本という状況で迎えた10月5日の西武戦。福浦選手は5回に同点のソロ本塁打を記録するなど、8回までに2安打1打点の活躍。そして、同点のまま迎えた9回裏、2死2塁の場面で、福浦選手は西武・土肥義弘氏からサヨナラ二塁打を放って試合を決めた。NPB史上2度しか記録されていないシーズン50二塁打を達成した一打は、あまりにも劇的なものだった。なお、福浦選手は翌2004年にも42本の二塁打を放ち、NPB史上唯一となる3年連続シーズン40二塁打の偉業を成し遂げている。

3戦連続2桁得点を決める、日本シリーズでの満塁弾(2005年10月25日)

 2005年、千葉ロッテは84勝49敗3分、勝率.632という素晴らしい成績を収めてリーグ2位に入り、プレーオフでレギュラーシーズン1位の福岡ソフトバンクを破って31年ぶりのリーグ制覇を達成した。福浦選手は5年連続となる打率.300到達を果たし、「3番・一塁」としてチームの快進撃に大きく貢献。プレーオフの第5戦、里崎智也氏の二塁打で一塁から激走して決勝のホームに滑り込んだ姿は、多くのマリーンズファンの記憶に強く残るものだった。

 阪神タイガースとの日本シリーズでもチームの勢いはとどまるところを知らず、千葉マリンスタジアム(当時)で行われた最初の2試合で打線が爆発。10対1、10対0と2戦続けて大勝を収めると、敵地・甲子園で行われた第3戦でも「マリンガン打線」は好調を維持。この年のセ・リーグ最多勝投手の下柳剛氏から3点を奪い、6回終了時点で3対1と試合を優位に進めていた。

 そして迎えた7回、千葉ロッテは藤川球児投手と桟原将司投手を捉えて3点を奪い、なおも無死満塁という場面で福浦選手が打席に。頼れる3番打者はこの場面で初球を完璧に捉え、甲子園のライトスタンドへグランドスラムを叩き込んだ。この一打によって一挙7得点のビッグイニングを生み出すとともに、チームは3試合連続で10得点という快挙を達成。完全に勢いづいた千葉ロッテは続く第4戦も制して、4連勝で31年ぶりとなる日本一の歓喜に沸いた。

クライマックスシリーズ初戦で決勝本塁打(2010年10月9日)

 山あり谷ありのシーズンとなった2010年。最終戦に勝利して0.5ゲーム差で3位に滑り込んだ千葉ロッテは、2位・埼玉西武とのクライマックスシリーズ初戦に臨んだ。試合は千葉ロッテの成瀬善久投手、埼玉西武の涌井秀章投手という両エースの好投により、拮抗した展開となった。埼玉西武が8回裏に一挙4点を勝ち越して試合を決めたかと思われたが、千葉ロッテも9回表に前年まで在籍していた埼玉西武の守護神・シコースキー氏を攻め、4点を奪い同点に。試合はそのまま延長戦に突入していった。

 3位の千葉ロッテはこの試合が引き分けだと、残り2試合のどちらかで1敗すれば敗退が決まる。いわば、引き分けはほぼ負けに等しいという状況だった。そんな中で迎えた11回表、先頭打者として福浦選手が打席に入る。福浦選手はこの年、13本塁打、打率.295と過去3年間続いた不振から脱却していたが、対右打率.318に対して対左打率.182と、かつては苦にしなかった左腕を極端に苦手としていた。その相性もあってか、埼玉西武の渡辺久信監督はワンポイントとして左腕の土肥義弘氏をマウンドに送り込む。

 しかし、5年前の日本一を知るベテランは完璧なスイングで苦手なはずの左投手のボールを捉え、試合を決める一打を千葉ロッテファンの待つライトスタンドに届けた。1対5からの大逆転勝利で勢いづいたチームは続く第2戦でも1点ビハインドの9回表に里崎智也氏の同点本塁打で追いつき、2日連続の逆転勝利でステージ突破。続くファイナルステージと日本シリーズも勝ち抜き、「史上最大の下克上」と呼ばれる奇跡の日本一を成し遂げている。



 今回は2001年の首位打者、2003年の50二塁打、2005年と2010年の2度の日本一と数々の栄冠を手にし、リーグ屈指のアベレージヒッターとして活躍した福浦選手の名場面を振り返っていった。後編では相次ぐ怪我に悩まされながらも印象的な活躍を見せてファンを歓喜させたシーンや、多くの人が待ち望んでいた金字塔へと到達した瞬間をまとめた、2011年以降の活躍を映像付きで紹介していきたい。

※後編(2011年以降)はこちら

関連チーム記事/TEAM