杉浦忠とともに、ホークスの2枚看板として君臨
昭和中期の南海ホークスのエースとして通算100勝を挙げたジョー・スタンカ氏が10月15日に死去した。87歳だった。
スタンカ氏は1931年7月23日、米オクラホマ州に生まれ、オクラホマ農工大を経て1950年にブルックリン・ドジャース傘下のマイナーチームでプロ生活を開始。
1952年ルール5ドラフトでシカゴ・カブスに移籍。1956年のシーズン前には独立リーグのチームにトレードされるなど、出世は遅かったが、1959年にシカゴ・ホワイトソックスでメジャーデビュー。しかし、2試合(1勝)の登板にとどまり、翌年、旧知のキャピ―原田(日系アメリカ人のスカウト)を通じて南海の鶴岡一人監督に連絡を取り、南海に入団が決定した。
スタンカは196センチ、96キロという超大型投手。角度のある速球とシュートは日本人打者を寄せ付けなかった。1958年に立教大から入団した杉浦忠とともに南海の2大エースとしてパ・リーグに君臨した。
ただ、鶴岡一人監督は、MLBがすでにローテーションを導入し、登板間隔を空けていたことに配慮し、スタンカには日本人投手のように連投や救援をさせることはほとんどなかった。そのことも、スタンカの投手寿命を延ばすこととなった。
愛息の事故死で離日、鶴岡監督「辛くてジョーの顔が見れんのや」
1961年の巨人との日本シリーズ第4戦でスタンカは珍しく杉浦忠を救援したが、あとアウト1つで勝利という場面で自信を持って投げた速球を「ボール」と判定され、円城寺満主審に詰め寄る騒ぎとなった。スタンカは次のボールを打たれサヨナラ負け。のちに、このシーンは「円城寺 あれがボールか 秋の空」という句になった。
スタンカは1964年には26勝7敗でMVPに輝く。翌1965年34歳になっても衰えは見せなかったが、この年の11月23日、15歳の長男ジョーイが神戸の自宅でガスの事故によって死亡。ジーン夫人ら家族は悲しみにくれ、スタンカはあと1年残っていた契約を解除して帰国する決断をした。
スタンカはこの年12月に日本を離れた。伊丹空港には鶴岡監督夫人顔を見せたが、鶴岡監督本人は「辛くてジョーの顔が見れんのや」と見送らなかった。南海での通算成績は94勝59敗だった。
翌年、スタンカは日本球界に復帰するが、南海にはすでに新外国人が来ていたため大洋に入団。6勝を挙げ、通算100勝72敗で引退した。1459回を投げ887奪三振、防御率は3.03だった。
米国人投手のNPB100勝はバッキ―とスタンカだけ
アメリカから来た外国人投手で100勝に達したのはスタンカと阪神などで投げたジーン・バッキ―の2人だけ。現役のメッセンジャーがあと5勝に迫っている。
1983年、MLBに造詣が深い慶應義塾大学の池井優教授が「ハロー、スタンカ元気かい」(講談社)を上梓。その英語版が発刊された1984年に、池井教授と鶴岡一人など南海OBはスタンカ夫妻を招いて大阪で「南海ホークスOB会」を開いた。この折に夫妻は、神戸の外人墓地に眠る愛息ジーンの墓にも詣でている。
鶴岡一人、杉浦忠らも世を去り、南海ホークスも30年前に福岡に移転した。大阪球場もなくなり、南海ホークスのエース、スタンカを知る人は少なくなった。
しかし、ジョー・スタンカの活躍は昭和中期の日本プロ野球に燦然と輝いている。
(広尾晃 / Koh Hiroo)
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