遊撃、三塁、一塁も守れる器用なバックアップ要員
9月23日、全盛期の西鉄ライオンズで内野のユーティリティ選手として活躍した滝内弥瑞生(たきうち・やすお)氏が死去した。82歳だった。
滝内氏は1935年10月30日生まれ。野村克也、長嶋茂雄と同世代。福岡県立戸畑高校から1954年、西鉄ライオンズに入団。同期入団には、福岡県立東筑高校時代からのライバルだった仰木彬や、同じく福岡県でライバルだった久留米市立南築高校卒の投手、北原啓がいた。
1年目は8試合の出場にとどまったが、2年目以降次第に出場機会が増えた。同級生の仰木彬が2年目に二塁のレギュラーとなる中で、滝内は控え二塁手となり、終盤からの試合出場が増える。
また二塁だけでなく遊撃や三塁、一塁も守り、内野のユーティリティとして重宝された。足も速く、代走に起用されることも多かった。173センチと当時としては長身で、仰木彬よりも大柄だったが打撃は非力で、2割を超えることはめったになかった。
しかし1960年に突如打撃開眼し、これまで通算4本塁打だったのが、6本塁打を打つ。この年には4番豊田泰光のあとの5番でスタメン出場することもあった。
1963年限りで引退。通算成績は680試合1051打数199安打13本塁打88打点32盗塁、打率.189だった。
コーチとして太平洋・真弓や近鉄・村上、鈴木貴、石井ら育てる
西鉄黄金期を率いた三原脩監督は、巨人や南海が豊富な資金力を背景に高校、大学の有名選手を次々と獲得して強大なチームを作る中で、地元福岡県、九州の埋もれた才能を発掘しては戦力にしていった。
足でも守備でも打撃でも、何か一つ秀でたところがあれば、その才能を伸ばしてスペシャリストにしていったのだ。
三原監督はこれを「超二流」と表現したが、滝内は修猷館高から西日本鉄道の河野昭修、三池工から東洋高圧大牟田の小淵泰輔らと並び、その代表選手とされた。三原監督は滝内の足と、どこでも守れる守備力を高く評価していたという。
引退後は長くコーチとしてチームに貢献。西鉄ライオンズは太平洋、クラウンと名称が変わったが、その間も、試合前にはノックバットを振るう滝内コーチの姿があった。山崎裕之、基満男、ライオンズ時代の真弓明信(のち阪神)らは滝内コーチに鍛えられて一人前の内野手になった。
ライオンズが本拠地を埼玉県所沢に移し、埼玉西武ライオンズとなってからもコーチとして勤めた。
1982年、西鉄時代の同僚、関口清治が近鉄バファローズの監督に就任すると近鉄に内野守備コーチとして入団。西鉄時代のライバルだった仰木彬がヘッドコーチだった。
1987年に仰木彬が近鉄監督になると1989年には滝内は二軍監督に。滝内は仰木監督が退任する1992年まで二軍監督を務め、村上隆行、鈴木貴久、石井浩郎ら主力選手を育て上げた。
今年に入って高倉照幸、田辺義三、そして滝内と西鉄ライオンズ全盛期を支えた選手たちの訃報が相次いでいる。ライオンズが九州から移転して40年目のシーズン、時の移ろいを感じずにはいられない。
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