高校は一般入試、プロ指名時は自宅で。元オリックス/巨人・鈴木優の野球史

パ・リーグ インサイト 鈴木優

2023.1.18(水) 17:55

元オリックス・巨人の鈴木優氏【写真:本人提供】
元オリックス・巨人の鈴木優氏【写真:本人提供】

 十人十色と言われるように、プロ野球選手約800人にも800通りの球歴がある。

 オリックスと巨人に所属し、2022年をもって現役を引退した鈴木優氏は、その800分の1のなかでも特筆すべき選手だと思った。

 プロの8年間で通算1勝3敗1セーブ2ホールド、防御率7.91。選手としては大きく成績を伸ばせなかった彼になぜ我々は着目したのか、その理由から話したい。

 初めて小誌が鈴木氏にインタビューしたのは、2020年、プエルトリコでのウインターリーグだった(ライター・中島大輔/カメラ・龍フェルケル)。異国での経験を声を弾ませて語り、「英語がしゃべれない人生なんて嫌だ」と選手やコーチらと通訳を介さずに話す向上心を知って、プロ野球選手としてのこれまでの実績以上に、彼自身をつくりあげてきた環境に興味を持った。

 引退後、早々に鈴木氏は次のステージへ歩み始めた。YouTubeチャンネルを開設し、第一子誕生にも立ち会った。春には夢だったアメリカで、野球を多角的に学んでくる予定だ。

 そして、これは私たちも3年前には予想だにしなかったこと。この冬パ・リーグマーケティングと契約を結ぶことになり、我々の同僚になったのだ。

 そこで、まずは鈴木氏に、これまでのことーーそれこそ初めてボールを握ったことから振り返ってもらおうと企画を持ちかけたところ、いわゆる「野球エリート」でない都会の少年がプロのマウンドに立ち、念願の勝利を上げ、引退を決めるまでの自身の四半世紀を、事細かに振り返ってくれた。そんな「鈴木優の球史」に、しばしお付き合い願いたい。

<第1章 プロ入り前まで>

初めてボールを握った時の思い出

 都立雪谷高校出身ということで、都内の出身と思われがちだが、幼少期は愛知県名古屋市に住んでいた。父親が名古屋ドーム(現バンテリンドーム ナゴヤ)での中日対巨人のチケットを貰ってきて観たのが、初めてのプロ野球観戦だった。そして当時青色が好きだったという理由で中日を応援したら、その試合で中日が勝ったことも覚えている。

 それがすごく楽しく思えて翌日父親と近所の公園でキャッチボールをしてみたのが、初めてボールを握った思い出だ。

 小学3年生までは名古屋に住んでおり、ソフトボール、ドッチボール、テニス、サッカー、体操などたくさんのことを習ってきた。

 近くに野球チームはなかったためこの時は、どれを集中的に習っていたというわけではなく、全てを楽しんでいた。

 そして小学4年生の時に東京都に引っ越した。その時に幸運にも行く予定の小学校に野球チームがあり始業式の前に友達がつくれたらいいという親の思いから入団し、正式に野球を始める。

はじめて野球チームに入った頃の一枚【写真:本人提供】
はじめて野球チームに入った頃の一枚【写真:本人提供】

 最初に守ったポジションはセカンドだったが補欠。4年生から野球を始めるのはそのチームでは1番遅く1番下手な状態でのスタートだった。

 負けず嫌いな性格のためたくさん練習をし、レギュラーを勝ち取った。足が早かったこともあり1番センターとなり野手としてプレーしていた。

 実はこの頃ジャイアンツジュニアを受験していて一次は通るも二次で落選。それでも、小学校6年の最後に目黒区の最優秀選手賞で名誉区民である王さんからトロフィーをもらう。


中学校(目黒バックス)時代は軟式チームに所属

 目黒区の公立中学校に進学し、硬式野球をするか軟式野球をするかで迷った。

 世田谷西シニアという全国レベルの硬式のチームか、小学生の時プレーしていた軟式チームの中等部かで迷ったが自分はまだ硬式の競合でレギュラーを取れる可能性は低いと考え、レギュラーとして試合に出れる地元の軟式チームを選んだ。

 キャプテンを務めキャッチャーをメインでやっていた。そして3年生の時に小学校の時と同様に目黒区で最優秀選手賞をいただいたことは、いい思い出だ。 ちなみに、僕がいた目黒区などの都心で中学野球をしている子は、上手い子ほど硬式野球に進むイメージがある。


都立雪谷を選んだ理由

都立雪谷高校時代【写真:本人提供】
都立雪谷高校時代【写真:本人提供】

 都立雪谷高校を選んだ理由は投手をしたかったからだ。これが1番強い。
中学校のときはキャッチャーがメインで投手をリードして抑えることにとてもやりがいを感じていたが、自分発信でないことに何か物足りなさを感じ自分が投手として抑えてみたいという気持ちになっていった。

 身体能力的に足も早く肩も強かったため、球速だけは当時から早かった。
そんななか、キャッチャーとして私立高校からお誘いをいただいたりはしたが、雪谷高校は投手として考えていただけると言ってくださったことが決め手となり、雪谷高校で投手としてチャレンジすることにした。

 中学のときも塾に通い勉強もある程度し成績も取れていたため、雪谷高校へはスポーツ推薦でなく一般推薦で入る道を選んだ。

 スポーツ推薦の枠を一つ自分が使わずに残すことにより、自分の代が強くなるならと思い、甲子園に行きたいという気持ちからそうすることにしたのだ。


高校時代の文武両道について

 当時の雪谷高校は定時制という夜間制の学校もあったため部活の時間が17時半までしかできなかった。

 授業も6限目まであると終わるのは大体15時半から16時、そうなると平日は1時間半しか練習することができない。

 そのため強豪と呼ばれる私立などと比べると練習時間の差はものすごくあるのだ。定期テストの時期になると2週間前から部活動ができなくなり、また赤点があると補習があるため部活に出ることができない。

 こういったこともあり勉強もしっかりやらないと野球ができなくなるシステムになっていた。なので僕は高校2年生の終わりまで「東進ハイスクール」という全国展開をしている一般的な塾に通っていた。

 部活が終わった17時半以降を有意義に使わないと私立高校に勝てるわけがないと思ったのでジムに行く日と塾の日とで週2回ずつ通っていた。

 最後の大会の成績はベスト8で終わった。

 対戦相手は関東一高で、楽天から巨人に現役ドラフトで移籍したオコエ瑠偉選手が当時在籍していた。

 序盤はリードした展開だったが、後半疲れと私立高校の意地で逆転されて負けた。真夏の神宮の暑さはサウナのような環境だったが約150球で完投した。


高校では前例がなかったプロ志望提出

 夏の大会が終わりプロ11球団とメジャーの球団数球団から調査書のようなものが届いた。

 高校2年生のときに大学へ進学か、高校卒業から直接プロを目指すのか進路を決めなくてはいけなくなった。大学への進学を決断すれば直接プロを目指すことは諦めなければならない。

 ワクワクするのはどちらかという点から雪谷高校からは前例のないプロ野球を目指すというほうに決めた。

 ドラフトで指名されなかったら、僕はアメリカで野球をすることを選んでいたと思う。当時からアメリカには興味があり行ってみたいと思っていたからだ。

 前述した通りドラフトで指名されなかったら良い大学には進学できなかっただろうし、そうなっていたらまたすごく迷っていただろう。

 高校から大学へ進んだ後ドラフト1位でプロ野球入りした東京都の同級生、清水昇(東京ヤクルト)、高橋優貴(巨人)が活躍しているのを見ると、もちろん二人がすごいのだが大学に行くことを選んでいたらどんな野球人生になっただろうと思うことはよくある。

 また大学へ進み社会人野球を経てプロ野球入りした同級生、伊藤優輔(巨人)の話を聞いても本当にいろんな環境があるなと思い、そのたびに想像が膨らむ。

 正解はないと思うし、それぞれの良さがあると思うが大学へ進んだ人生も送ってみたかったし、野手としてプレーしていた野球人生も過ごしてみたかったななんて思う。

 ドラフトの日のことを回顧する。都立雪谷高校初のドラフトということで、学校側は対応にも戸惑っていた。

 ドラフト当日が高校の定期試験の期間ということもあり、ドラフト指名された際に学校では会見ができないと言われ、実家で待つことにした。本心としては母校で同級生たちと待ちたかったのだが、当時の校長の判断なので仕方がないなという気持ちだった。

 それに加えて周りの同級生もドラフト当日はテスト期間なので居合わせることも禁止された。なのでなかなかみることのない実家で地元の友人と指名を待つという特殊なものになった。今となってはそれはそれで良い思い出だ。


なぜドラフトに? 評価の軸は

 オリックスからは指名の際に言われたのは、潜在能力の高さについてだった。

 当時の僕は東京ではある程度のレベルではあったが、全国で見るとそんなにすごい投手ではなかったと思う。

 そのなかで都立の環境で育ってきたことや、身体能力の高さを評価してもらえたということだった。

 当時の編成部長の加藤さんは、投手で伸びなかったら野手転向させるともおっしゃっていたので、そういったところも評価していただいたようだ。

<第2章 プロ入り後>

同期の宗佑磨選手との関係

 当時の僕からしたら同期の同級生みんなが格上の選手のイメージ、特に同じ投手だった佐野(皓大/ドラフト3位指名)は甲子園での活躍を知っていたし、特に負けないように頑張ろうと思っていた。

 そんななかで宗(佑磨/ドラフト2位指名)とは初めて会った時から凄くフィーリングが合うように感じた。今も仲良く1番の親友となった宗だが、最初から不思議と話が合った。野球を辞めても変わることはないと思うし一生の仲だ。

 今、宗は2年連続のベストナイン、ゴールデングラブ賞を取るなど一流選手の仲間入りを果たしたわけだが、それでも変わりなく接してくれるので宗の人の良さをより感じる。

 実は、入団前後を通して憧れの選手は特にいなかった。みんながすごかったし参考にする選手はたくさんいたが、憧れという意味で考えるとあまりいなかったかなと思う。

 高校時代は全くと言っていいほどプロ野球にも他の高校野球の選手にも興味がなかった。対戦相手にプロ注目の選手がいるとかであれば対戦にワクワクしたものだが、テレビなどで野球を見るということは特になかった。

 だからオリックスに入団した当初は本当に先輩方の名前を覚えるのに苦労したものだった。

初めての寮生活はストレスの連続

 入寮当時は現在の大阪の舞洲ではなくほっともっとフィールド神戸の近くに入寮。

 イチローさんが入団した時にもあった歴史のある寮でそんなに新しくはなかったが、ちょうど良い田舎でとても過ごしやすかった。免許を持っていない僕と宗は自転車を購入しよく周りを走りにいった。

 初めての寮生活、家族以外の人と生活するというのは最初はやはり相当ストレスがあった。

 関西弁の人と話すと普通に話していても怒られているような感覚にもなった。でも寮生活に慣れてくると宗や、仲良くしていただいた先輩などと部屋でゲームをしたりし楽しく過ごしていた。

 ちなみに関西弁は当時怖いと感じていたが今になっては関西弁の方が暖かみを感じる。慣れると居心地が良くなるのは不思議なものだ。


バファローズ投手陣の強さ

 オリックスというチームは投手力のチームだと思う。

 僕が入団した時は先発に金子(千尋)さん、西(勇輝)さんがいてリリーフに平野(佳寿)さん佐藤達也さん岸田(護)さん馬原(孝浩)さんなどがいて12球団でもトップクラスにいたように感じる。

 そして今はメンバーが変わり由伸をはじめ山岡(泰輔)さん宮城(大弥)などの先発にリリーフとして阿部(翔太)さん平野さん、(山崎)颯一郎、宇田川(優希)などがいる。

 どんな時でも引っ張っていってくれるすごい投手がいることで、チーム全体がついていく感じがするのがオリックスだと思う。

 チーム全体が仲が良くどんなことも質問できる環境になっていることも、全体として上がっていく理由としてあるのではないかと思う。


プエルトリコ遠征で学んだこと

プエルトリコのウィンターリーグで【写真:本人提供/撮影:龍フェルケル】
プエルトリコのウィンターリーグで【写真:本人提供/撮影:龍フェルケル】

 2019年末にプエルトリコに行って、一番良かったことは野球を楽しむということを思い出せたこと。

 それまでの5年間はなかなか一軍に上がれずにもがいていた。年数を重ねるごとに焦りもあり野球をすることが苦しくなっていった。

 そんななかプエルトリコでの野球は違った。良い結果が出なくてもその場ではグローブを叩きつけるほど悔しがるが、試合後になるとみんなでロッカーで踊っている。良い意味で単純にプレーを楽しんでいるのだ。

「ダメでも次頑張ればいいよ、全力を尽くしたんだからしょうがない」とコーチなどにも言われなかなか日本ではない指導だなと思った。

 そこからどうせやるなら楽しもうと思えたのが大きな転機となった。


6年目の初勝利

 前オフのプエルトリコウィンターリーグから帰ってきてキャンプは二軍スタートだった。今までなら焦って悔しがるところだったが、プエルトリコへ行きどんな環境でも自分ができることをただ楽しんでやるだけと思えた。

 その結果キャンプの実戦から結果を出すことができ、オープン戦は一軍帯同。開幕一軍は果たせなかったものの、開幕してすぐに一軍に合流した。

 最初はリリーフとして帯同していたが、先発ローテで回っていた山岡さんが怪我をし、急遽先発の機会を得た。2020年7月1日のことだ。

 前年までならチャンスでもピンチの様に緊張してしまっていたが、その時は楽しもうと思えて前日もワクワクしていた。

 その結果5回ノーヒットというすばらしいピッチングでチームの8連敗を止める初勝利を手にすることができた。


戦力外通告を受けた心境

 初勝利をした次の年、前年にはギリギリでなれなかった開幕一軍をリリーフで勝ち取り、開幕から13試合までチームトップのペースで投げていた。

 そのなかの二試合で大きく失点し抹消となり、結果そのまま一軍に上がることができずに戦力外通告を受けた。

 後半からチームの調子がよかったこともありなかなか選手の入れ替えもなくチャンスが巡って来なかった。

 でも13試合一軍で投げていることもあり今年は大丈夫かなと思っていたところも正直ある。来年はやり返してやるという思いが強かった。

 だが戦力外通告を受けその時は自分でも驚いたが悲しい気持ちはあまりなかった。今後についてすぐ考えていた。

 戦力外になる前からこうなったらどうしようかと考えたり、備えておくことは大事だと思っていたのでこういう気持ちになったのだと思う。

 その当時は野球でアメリカへ行き挑戦するか、国内のプロ球団でプレーをするかどちらかにしようと思っていた。実際メジャーの球団に対し、いろいろな方に協力していただき動き始めていた。

 そんななか地元で憧れであった巨人から育成契約のオファーをいただき、そこは迷いなく入団を決めた。

<第3章 移籍、引退>

巨人への移籍

 巨人への移籍はプロ8年目とはいえ初対面の選手が多く、すごく緊張したし、気遣った。

 元々結構気を遣ってしまうタイプなのでキャンプの期間は特に気疲れしてしまっていた。

 それでも一年勝負と思い、楽しみながら1日1日を大事にしようと思いやっていった。

 巨人はオリックスよりも全体で合わせる練習が多かった。オリックスでは午前中に全体で合わせる練習をし、午後は自主的な練習からウエイトトレーニングに入っていたのだが、巨人ではバッティングなどが入ることもありトータルの時間は遅くまでかかった。

 またオリックスは上下関係が良い意味でも悪い意味でもあまりなく、みんなが仲良くやっていた。それに比べて巨人は上下関係がある程度しっかりしていて、その差は大きく感じた。


2度目の戦力外通告と引退決断

 育成選手として巨人でスタートした訳だが支配下になれる期限が7月末までとなっており、そこまでの勝負だと思いプレーをしていた。

 キャンプでは二軍スタートし途中で一軍に合流、そこでいい結果を出すことができずに二軍に戻った。

 シーズン中は三軍がメインとなり、開幕してからは最終戦まで自責0と抑えていたがなかなか二軍の試合で投げる機会はなく支配下登録されることはなかった。

 元々一年勝負と思いプレーをしており、そこから戦力外となり怪我とかはなく身体はまだまだ元気ではあったが、野球のプレーヤーとしてはここで終わろうと区切りをつけた。


プロ野球選手のセカンドキャリアをどう考えるか

 引退した今、後悔は全くない。

 プエルトリコに行ってからその場その場を楽しみながら全力でやってきたし、それで結果ダメだったのだからしょうがない。

 逆に今選手の時よりもワクワクしている。

 やってみたかったYouTubeを始め、夢であったアメリカへの留学への準備もしている。将来的にはプロ野球界に携わっていきたいし、僕が貢献できることをやっていきたい。

 そして最終的には母校都立雪谷高校の監督をしてみたいという夢もある。

 都立出身のプロ選手をもっと出したいし甲子園にももう一度出場してほしい。そんな夢を叶えるため勉強をし続けたい。

文・鈴木優

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パ・リーグ インサイト 鈴木優

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