10月19日、今季限りでの引退を決めた平成の怪物・松坂大輔(41)がメットライフドームで引退会見を行った。同日の17時45分から行われる北海道日本ハム23回戦で、先発投手として引退試合に臨む。松坂大輔投手の一問一答は以下の通り。
松坂「本日はお忙しい中、お集まりいただきまして誠にありがとうございます。今シーズンを持ちまして引退させていただくことをここにご報告させていただきます。今日はよろしくお願いします」
ーまずは23年間のプロ生活お疲れさまでした。今日という日を迎えて、冒頭のご挨拶もありましたが、今の率直なお気持ちを聞かせてください。
松坂「そうですね。誰しもが長くプレーしたいと思い、この日がなるべく来ないことを願っていると思うんですけど、今日という日が来てほしかったような来てほしくなかったような、そんな思いがあったんですけど、現時点ではまだスッキリしてないんですかね。このあとに投げることになってますし、投げることができてそこで、自分の気持ちもスッキリしたいなと思います」
ー来てほしいのはどういった思いからでしょうか
松坂「体の状態のこともありますし、続けるのが難しいと思ってたので、できるだけ早くこうして皆さんの前に出てきて、報告できれば良かったんですけど、7月7日に引退発表があって、当初球団とは、すぐに会見を準備してもらう予定だったんですけど、僕自身が発表したものの、なかなか受け入れられなかった。発表したにも関わらず、自分のなかで気持ちが揺れ動いているんですかね、そのなかで会見するのもなと思って、球団にちょっと待ってくださいと言って大分経っちゃったんですけど、発表してから3カ月間、やれそうだなって思った日は一度もなかったですね。できるだけ早く終わらせられたら良いんだろうなと思いながら過ごしてました」
ー引退を決断した一番の要因は
松坂「昨年の春先に右手のしびれが強く出るようになって。その中でもなんとか投げることはできたんですけれども、コロナ禍で緊急事態宣言になり、トレーニングも治療もままならないなかで、症状が悪化して。できれば手術は受けたくなかったんですけど、ほぼ毎日のように首の痛みや右手のしびれで寝られないことが続いて、精神的に参ってしまったというのもあって、手術を決断したんですけど、これまで時間をかけてリハビリしてきましたけど
なかなか症状が改善しなかった。
そのなかでもキャンプイン後も、そろそろバッティングピッチャーやって、ファームの試合で投げられそうだねってところまで来たんですけど、その話をした矢先に、ブルペンの投球練習のなかで、なんの前触れもなく右打者の頭の方にボールが抜けたんですね。それもちょっと抜けたとかそういうレベルではなくって。とんでもない抜け方をして。そういうとき投手って抜けそうだなと思ったら指先の感覚とかで引っ掛けたりするんですけど、それができないくらいの感覚の無さというんですかね。そのたった1球で僕自身がボールを投げることが怖くなってしまった。そんな経験は一度も無かったので、ショックがすごく大きくて、松井二軍監督に相談してちょっと時間をくださいとお願いしました。
時間はもらったんですけどなかなか右手のしびれ、麻痺の症状が改善しなかったので、これはもう投げるのは無理だなと。それで辞めなきゃいけないと自分に言い聞かせた感じですね」
ー引退の決意が固まったのはいつごろだったのでしょうか
松坂「球団に報告する1週間前とかだったと思いますね。球団にお願いして休ませてもらったのが5月の頭くらいだったので、2カ月間考えて、悩んで。そのなかでも治療を受けに行ったりして、なんとか投げられればと思ったんですけど、ほぼ変わらなかったので、時間ももう無いなと思いました」
ーどなたかに相談はされましたか
松坂「もう難しいかもしれないっていう話を家族にはしました」
ーご家族はどんな反応をされましたか
松坂「(言葉に詰まる)だから会見したくなかったんですよね。やめると決断したときに妻に電話したんですけど、ちょうど息子がいて。(再び言葉に詰まる)本当に長い間、お疲れさまでしたと言ってもらえましたし、僕のほうからもたくさん苦労をかけたけど、長い間サポートしてくれてありがとうと伝えさせてもらいました」
ー今こみ上げてくるものは、家族への感謝の思い、それとももう少しまだ投げたいという思いですか
松坂「ただ一言で感謝と言ってしまえば簡単なんですけど、そんな簡単なものでは無かったですし。良い思いもさせてあげられたかもしれないですけど、家族は家族なりに我慢というか、ストレスもあったと思いますし。本当に長い間我慢してもらったなと思いますね」
ー今一番感謝を伝えたいのはどなたかでしょうか
松坂「妻もそうですし、子どもたちもそうですし、両親もそうですし、これまで僕の野球人生に関わっていただいたアンチのファンの方も含めて感謝しています」
ー今後について考えていらっしゃることはありますか
松坂「家族と過ごす時間を増やしながら、違う角度で野球を観ていきたいと思いますし、野球以外にも興味があることはたくさんあるので、それにもチャレンジしていきたいと思いますし、野球界、スポーツ界になにか恩返しできる形をつくっていけたらいいなと思っています。漠然とですけど」
ー輝かしい時期も怪我に苦しんだ時期もありました。この23年間はどういったものでしたでしょうか
松坂「23年、本当に長くプレーさせてもらいましたけど、半分以上は故障との戦いだったなと思いますし、最初の10年があったからここまでやらせてもらえたと思ってますし、僕みたいな選手なかなかいないかもしれませんね。(つまり)一番良い思いとどん底も同じくらい経験した選手っていうのはいないかもしれないですね」
ーご自身からみた松坂大輔投手というのはどういった評価になりますか
松坂「長くやった割には思ってたほど成績残せなかったなと思いますね」
ー辛口ですね
松坂「通算勝利数も170個積み重ねてきましたけど、ほぼ最初の10年で勝ってきた数字ですね。自分の肩の状態も良くはなかったですけど、さらに上乗せできると思ってましたね」
ー褒めてあげたい部分は
松坂「選手生活の後半は叩かれることのほうが多かったですけど、それでも諦めずにね。(言葉詰まる)諦めの悪さを褒めてやりたいですね。もっと早くやめても良いタイミングはあったと思いますし、なかなかこう思ったようなパフォーマンスが出せない時期が長くて。
自分自身苦しかったですけど、その分たくさんの方にも迷惑をかけてきましたけど、よくここまでやってきたなと思います。これまではたたかれたり批判されたりする事に対して、それを力に変えて跳ね返してやろうとやってきましたけど、最後はそれに耐えられなかったですね。心が折れたと言うか、なんとかエネルギーに変えられたものが、受け止めて跳ね返す力がもう無かったですね」
ー23年間で印象に残っている試合、楽しかった対戦は
松坂「その質問されるだろうなと思って色々考えてたんですけど、色々ありすぎてですね、この人、この試合、この1球と決めるのは難しいですね。観て感じるものだったり記憶に残るものって人それぞれ違うと思うので、何かをきっかけに、松坂あんなボール投げてたな、あんなバッターと対戦してたな、あんなゲームあったなって思い出してくれたら良いかな」
ー松坂大輔投手を象徴するのが18番という数字。18番に対する特別な思いとかはありますか
松坂「小さい頃にプロ野球を見始めて、桑田さんの背番号18がものすごくかっこよく見えて。当時はエースナンバーとは知らなかったですけどね。最初に受けた衝撃がそのまま残ってたというんですかね、プロに入ってピッチャーをやるなら18番を付けてやりたいとずっと思ってましたし、18という数字にこだわってきたと言うか、周りにいい加減にしろと言われるくらい、なんにでも1と8を付けたがる自分がいましたね。最後にこうして18番を付けさせてくれた球団には本当に感謝しています」
ー今日はその番号を付けての登板。どんな姿を観てもらいたいですか
松坂「本当は投げたくなかったですね。この状態でどこまで投げられるかというのはありましたし、もうこれ以上ダメな姿は見せたくないって思ってたんですけど。引退をたくさんの方に報告させてもらいましたけど、最後ユニフォーム姿でマウンドに立っている松坂大輔を見たいと言ってくれる方々がいたので、どうしようもない姿かもしれないですけど、最後全部さらけ出して見てもらおうと思いました」
ー試合後にセレモニーを行う予定は
松坂「特に引退セレモニーとかはないんですけれども、セレモニーに関してはあらためてファン感謝デーのときにやらせてもらえるということなので、そこであらためてファンの方々になにか伝えられたらと思っています。今日は試合後にグラウンドを一周して、スタンドに挨拶だけは行かせてもらいます。今日やるとナイターですし、皆さんも時間多分無いと思うので、別の日にしたほうが良いかなと。僕の気遣いです(笑)。終電もありますし」
ー松坂大輔投手にとって野球とは
松坂「気の利いたこと言えたら良いんですけどね。5歳くらいからはじめて35年以上になりますけど、ここまで来た僕の人生そのものだと言えますし、そのなかで本当にたくさんの方々に出会えて、助けてもらってここまで生かされてきたと思いますね。本当に皆さんには感謝しています。その思いを込めて、何球投げられるかわからないですけど、最後のマウンドに行ってきたいと思います。本当にありがとうございました」
ー苦しい思いをたくさんされてきたと思いますが、野球への思いが揺らいでしまったことはあったのでしょうか
松坂「僕だけじゃなくて怪我をしている選手、結果が出ない選手もいると思うんですけど、その出ない時間はすごく苦しいんですよね。周りの方が思っている以上に。僕の場合は野球を始めたころから変わらない野球の楽しさ、野球が好きだと、その都度思い出して気持ちが消えないように戦っていた時期はありますね。どんなに落ち込んでいても最後にはやっぱり野球が好きだ、まだまだ続けたい。プロ生活の後半はギリギリのところでやってたなと思いますね。いつ気持ちが切れてもおかしくなかったと思いますね」
ー引退を決めた今でも野球を好きだという気持ちは変わらない?
松坂「好きなまま終われて良かったです」
ーブルペンでの話はいつごろだったのでしょうか
松坂「4月の終わりごろですかね。ゴールデンウィーク頃から休ませてもらったので、4月の終わりだったと思います」
ーこれが松坂大輔のボールだと思って自身を持って最後に投げられたのはいつですか
松坂「2008年くらいですかね。今でも忘れないと言うか、細かい日付は覚えていないんですけど、2008年の5月か6月か。チームがオークランドに遠征中で、僕もその前の試合で投げてオークランドで登板間のブルペンの日だったんですけど、ロッカーからブルペンに向かう途中で足を滑らせてしまって、とっさにポールのようなものを転ばないようにつかんだんですけど、そのときに右肩を痛めてしまって。
そのシーズンは大丈夫だったんですけど、オフからいつもの肩の状態じゃないと思いだして、そこからは肩の状態を維持するのに必死でしたね。僕のフォームが大きく変わり始めたのが2009年くらいだと思うんですけど、その頃には痛くない投げ方、痛みが出てもなるべく投げられる投げ方をを探しだした。そのときには自分が求めるボールは投げられてなかったですね。これからはその時その時の最善策を見つける、そんな作業ばっかりしていました」
ー切磋琢磨してきた松坂大輔世代への思い
松坂「良い仲間に恵まれた世代だったなと思います。みんな仲良かったですし、言葉に出さなくてもわかりあえるところはありました。松坂世代という名前がついていましたけど。自分は松坂世代と言われることがあまり好きではなかったんですけど、周りの同世代みんながそれを嫌がらなかったおかげで、ついてきてくれたと言うとおこがましいかもしれないですけど、そんなみんながいたから、先頭を走ってくることができたんですかね。みんなの接し方が本当にありがたかったなと思いますね。
それと同時に自分の名前がつく以上、その世代のトップでなければならないと思ってやってきましたけど、それがあったから最後まで諦めずに、ここまで諦めずにやれてこれたかなと思いますし、最後の一人になった毅(ホークス・和田毅投手)にですね、僕の前にやめていった選手たちが、残っていた僕らに託していったように、まだまだ投げたかった僕の分も、毅には投げ続けていてほしいなと思います。できるだけ長くやってほしいなと思います。同世代の仲間にも感謝しています」
ープロの投手としてマウンドに上がるときに意識されたこと、心がけたことは
松坂「この23年間あまり自分の状態が良くなくて、投げたくないな、できれば代わってもらいたいなと思う時期もあったんですけど。やっぱり最後は逃げない、立ち向かう、どんな状況もすべて受け入れる、どんな自分に不利な状況も跳ね返してやる、試合のマウンドに立つその瞬間には、必ずその気持を持って立つようにしてました。ギリギリまで嫌だなと思ってることもありましたけどね。でも立つときには覚悟を持ってマウンドに立つことにしていました。
ー松坂大輔投手は大舞台で結果を残してきました。大舞台で力を発揮できない子どもたちにアドバイスを
松坂「国際大会とか、試合によっては厳しい状況もあったんですけど、このマウンドに立てる自分はかっこいいと思ってましたね。思うようにしてました。他の人に任せてもらったほうが良いということもあったかもしれないですけど、やっぱり大きな舞台、目立てる舞台に立てる自分がかっこいいと思うようにしてたからなんですかね。毎回勝ってたわけじゃないですけど、もちろん痛い思いをしたこともありましたけど、そういう舞台に立てるのはかっこいいことだと思うので、みんなにはそういう舞台に積極的に立ってもらいたいなと思いますね」
ーやり残したことだったり、後悔はありますか
松坂「ライオンズに入団したときに、東尾さんに200勝のボールをいただいたので、自分自身が200勝してお返ししたかったなと思いますね」
ー長い間戦った自分にどのような声をかけたいですか
松坂「もう十分やったじゃん。長い間お疲れ様って言いますかね」
ー野球をやめるにあたってお子さんからねぎらいの言葉があれば
松坂「家族も僕の体の状態をわかってましたし、実際辞めるよって言う前にも、そろそろ辞めるかもねって話をしたときに喜んでたんですよね。これからは遊ぶ時間が増える、うれしいと言ってたんですけど、実際やめるって報告したときはみんな泣いていた。やったおつかれさまって言われるかと思ったんですけど、みんなしばらく泣いて黙ってたんで。僕にはわからない感情を妻や子どもたちは持っていたのかもしれないですね。あらためて感謝の気持ちと同時に申し訳なかったなという気持ちがありましたね。
あんまり家族のことは言いたくないですし、言わないようにはしてきたんですけど。妻と結婚してもらうときも、批判の声だったり、たたかれることもたくさんあると思うけど、自分が守っていくからと言って結婚してもらったんですけど、半分以上それができなくて、本当に申し訳なかったなと思います。妻は関係ないところでたたかれたりすることもあったので、本当に大変だったと思います。そんなに気持ちの強い人ではなかったので、本当に迷惑をかけたと思いますし、そのなかでここまでサポートしてくれて本当にありがとうございましたとあらためて言いたいですね」
ー今後ご家族と一緒にやりたいこと
松坂「最近家の庭で野菜を育てたりしているので、そういうことをみんなで楽しみながらやっていきたいなと思いますね。大したことじゃないのかもしれないですけど、そういうことをさせてあげられなかったので、これからはそういう時間を増やしていきたいと思います」
ー諦めの悪さを褒めてあげたいという言葉がありました。諦めの悪さの一番の原動力はどんな思いだったのでしょうか
松坂「すべてがそういうわけではないんですけど、諦めなければ最後は報われると、それを強く感じさせてくれたのは、夏の甲子園のPL学園との試合ですかね、今質問されてもその試合が出てきたので、あの試合があったからですかね。最後まで諦めなければ報われるよ、勝てる、あの試合が諦めの悪さの原点ですね」
取材・文 東海林諒平
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