振り返ってみても、矢野謙次氏の勝負強さは指折りだった。現役時代は巨人・北海道日本ハムで主に代打の切り札として活躍。2018年シーズンをもって16年間の現役に幕を下ろしたが、その最終打席も代打で見事なレフト前ヒットを放つ。直後の引退セレモニーと引退会見でチーム、ファン、そして北海道という地への恩と慕情を語った姿は、ファンの脳裏に深く刻み込まれているだろう。
引退後は北海道日本ハムでチーム統轄本部特命コーチに就任。そして米メジャーリーグのテキサス・レンジャーズにコーチ留学を果たした。
実は、北海道日本ハムがコーチ留学としてMLBへ派遣したのは3人目で、金子誠氏、中嶋聡氏が当時業務提携を結んでいたサンディエゴ・パドレスへ行っている。チームは2018年よりレンジャーズと業務提携を結び、その年に統轄本部国際グループの榎下陽大氏(元投手)を送り、翌2019年2月に矢野コーチを派遣した。
矢野コーチのインスタグラムでは、バディーを組む榎下氏とアメリカンライフを楽しんでいる様子や、溌剌とした姿を見ることができる。4月某日、一時帰国中の矢野コーチとファイターズ鎌ケ谷スタジアムで会い、メジャーリーグで学んでいること、アメリカでの生活、そしてチームに還元したいことをうかがった。
「謙次の好きなように」と言われて
当初はマイナーリーグでのコーチ研修の予定だったんですが、レンジャーズのベンチコーチのドン・ワカマツさんがメジャーのキャンプで勉強できるように計らってくれたんです。現役時代の37番のユニホームも用意していただき、なに不自由なくスタートしました。チームからもワカマツコーチからも、「謙次の好きなようにやってくれ」と言われたので、本当に好きなようにやらせてもらいました。
メジャーの選手は朝の5時に球場に来るんですよ。しかもトレーナーたちはもっと早い。全体練習が12時半とか13時くらいに終わったら、選手のケアの様子も見せてもらいました。メジャーの練習が終わったらマイナーが練習をやってるので、それを16時くらいまで見学。さらにレンジャーズとロイヤルズのグランドで大学野球の試合もやっていたので、それも見てーーというのが、大体の一日の流れです。好きに動いていいし、ピッチャーを見たかったら勝手にブルペンに行ってもいいし、マイナーで練習試合をやっていたらそちらに行ってもいい。
レンジャーズとは提携して2年目なんですけど、去年から榎下くんの派遣があっての僕だったと思うんです。でもその前に“大きかった”と思ったのは、ダルビッシュ投手や、上原(浩治)投手、建山(義紀)さんなど、日本人投手がレンジャーズでプレーしたことがあって、その方々が実績を残し、日本人選手とコーチやチームスタッフがいい関係を築けていたという下地があったことです。例えば「ダルビッシュはこうだった」「建山はこう言っていた」「彼らはこういう日本語を教えてくれたんだよ」というやり取りができたんです。それがあったから日本人の僕はやりやすかったし、球団側も受け入れやすかったんだと思います。3人のおかげです。
アメリカでの生活は、もう楽しすぎて、帰りたいなんて一度も思わなかった。行く前に「食事がしんどいよ」と周囲から言われていたんですけど、僕はそんなんことはなくて。日本食がなくても全然大丈夫でしたし、毎日楽しかったですね。クラブハウスでの食事も、メジャーの選手と同じものを食べさせてもらったのですが、やっぱりおいしいんですよ!
チームの環境・体制に見る、メジャーと日本の違い
選手のロッカールームは、ソファーがあったり音楽が流れていたりと、くつろげる環境でした。GMやスタッフの人たちは全員、グラウンド上のことでも、グラウンド外の生活のことでも、選手にストレスを与えたくないという考えを持っています。なので選手たちにとってロッカールームは、自分の家や部屋みたいな感覚。そこが日本とは違うのかなと思いました。
あと日本と違うところは、練習のスタートが早いということ。朝の5時からやって、全体練習を12時、13時までやって終わり。あまり日本みたいに居残り練習はなかったですね。早朝に来てコンディションを整えて、体操やストレッチ、ウエイトトレーニングをして、守備の基本、ゴロの捕球動作やハンドリングの練習をします。それから素振りしたり、ケージで打ったり。その後全体練習に入るわけです。全体練習が終わったらその日は終わり。午後からは家族と過ごすっていう感じです。
アメリカの球団にあって、日本の球団にはないもので言うと、レンジャーズでは、メンタルトレーニングコーチがいました。日本にもフィジカルトレーニングコーチやトレーナーはいますが、レンジャーズではメンタルトレーナーも置いていましたね。
僕は、プロ野球2年目の終わりに、メンタルトレーナーにトレーニングを受けていた経験があります。シーズン中はもちろん、シーズン中でなくても、なにか不安は抱えているはずなんですが、でもそれを吐き出すところがない。話を聞いてくれて、こうやって考えたらいいんじゃないとか、それちょっと違うよとか、軌道修正していい考え方を提示してくれる。そうした考え方とか気持ちの面をケアする存在の人は、ものすごく大事だと思います。
若い頃も「なんかしんどいな」ってときがあるんですけど、年齢重ねていくと、年上だから愚痴を言ったらかっこ悪いって思う場面もあるじゃないですか。立場的に言えないとか、レギュラーをずっと張っている人間が、弱いところを見せられないとかもあると思うんです。それを吐き出せる人、1年間を通して戦ううえでの不安材料を除去してくれる人がいるってことは大事だなと思いますね。
あと、レンジャーズではコーチやマネージャーじゃなくて、マイナーリーグや若手選手のそばに寄り添って見てくれる人がいるんです。グラウンドでの表情とか仕草から、悩みを抱えていないかどうか日常生活にも目を光らせる役割の人。それはすごく大事だなと感じました。
次はマイナーの選手が育っていく様子を見たい
日本では「きっちりちゃんとやりましょう」とよく言われますよね。気配りや先を読むことに秀でています。このプレーのあとには、これが起こるだろうからカバー入ろうかなとか。プレーではなく気配りの面は、間違いなく日本の方が優れている点だと思います。それに比べて、いい意味でのいい加減さ、それゆえの思い切りのよさがアメリカにはあります。アメリカのいいところ、日本のいいところをうまく組み合わせて、いい部分をファイターズの選手に還元して、それが選手にとって簡単でわかりやすく伝えることを意識していきたいです。
これからまたアメリカへ飛び立つわけですが、今度は、AAAから下のカテゴリーを見に行く予定です。試合前の練習からベンチにも入っていいということになっているので、AAAの現状や一番下のルーキーリーグといったマイナーの現状をみて、選手がステップアップするために監督コーチが何を提供し、それを選手たちはどう受け取っているのか、またどう行動に移しているのかを一緒に過ごしながら感じていきたいと思っています。
先ほど、メジャーの食事はおいしかったと話しましたが、マイナーの食事は一般的によく言われているように、多分よくないと思います。量もないし、パンとソーセージを渡されて、「ほら、食え」みたいな。でも、それもまたおもしろいじゃないですか。僕もそれを体験して、そこから選手たちがどうやって這い上がってくるのか、ふるいにかけられてどう残っていくのか見られるのを楽しみにしています。
文・海老原 悠
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