2010年から4シーズン、北海道日本ハムに在籍し28勝をマーク
2010年から4シーズンにわたり、北海道日本ハムで活躍したボビー・ケッペル投手。来日1年目にいきなり12勝をマークすると、2年目の2011年には26試合に先発して14勝をあげた。3年目、4年目は右肩の故障に苦しんだが、温厚で誠実な人間性からファンからも愛された助っ人だった。
そんな優良助っ人だったケッペル。2013年オフに北海道日本ハムを退団したあと、どのようなキャリアを歩んでいたのだろうか。米紙「ナショナル・カトリック・レジスター」電子版が特集を組み、ケッペルの人生にスポットを当てている。
北海道日本ハム退団後、ケッペルはレッズと2年のマイナー契約を締結。記事でも「2014年初め、ボビー・ケッペルはシンシナッティ・レッズの先発投手になるところだった。2000年のMLBドラフトで1巡目に指名され、日本で4年間スキルを磨き、アメリカでそのスキルを活かす準備は万端だった。彼が登板するのは時間の問題のように思われた」とされ、米球界に復帰することになっていた。
だが、ケッペルは2014年以降、マイナーリーグでも1試合も登板していない。何があったのか。
「父のカート・ケッペルは癌と闘っていて、息子に実家に戻ってきて家業の造園事業を手伝うように頼んだ。ほとんどの選手にとっては苦渋の決断となるだろうが、ボビー・ケッペルにとっては簡単であった。ミズーリ州セントルイス出身の当時31歳だったケッペルは先発投手になる夢を捨て、ミッドアメリカ・ローン・メンテナンスの経営に携わり始めた」と記事では言及。ケッペルは現役を引退し、父が営んでいた家業を継いでいた。
2014年のスプリングトレーニング前、父の癌が発覚
2014年のスプリングトレーニング直前に起きた出来事も、記事内でケッペルが回想している。
「父が1982年に造園事業を始めた。2014年初めに癌と診断されるまで、彼が主に1人で経営してきた。その年のスプリングトレーニングに参加する前、彼は大丈夫、なんとかするよと言っていた。その少し後、治療がよりアグレッシブになった。彼は僕の力だ必要だと言った。だから、プロ野球選手としての最後に投げたのが(日本で)空振り三振を奪った93マイルの直球になった。翌日、妊娠6ヵ月の妻と3人の子供と一緒に実家に帰った」
「日本で4シーズン過ごし、スキルを磨いた。投球だけでなく、先発投手としての技術を磨いた。レッズでローテーションの座を獲得するために、スプリングトレーニングに参加する準備は万端だった」
父親のため、家族のために、現役を退く決断を下したケッペル。当時の決断を「難しくなかった。メジャーリーグの先発投手になりたかったが、家族が優先だった。信じられないかもしれないが、とても簡単な決断だったよ。時が経つにつれ、時々まだプロ野球選手だったらどうだっただろうと思うこともあるが、それでも個人の野心よりも家族が大事だということは分かっている」と振り返ったケッペル。北海道日本ハムを退団し、アメリカに戻った後、家族のために生きる人生を選んでいた。
(Full-Count編集部)
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