富士大からドラフト8位で東北楽天に入団した鈴木翔天投手
東北楽天のドラフト8位の鈴木翔天投手が富士大の先輩を目標にプロ生活をスタートさせる。埼玉西武・多和田真三郎投手のように「最多勝を獲れるように頑張ります」と誓った。
185センチの長身から角度とキレのあるストレートに、スライダー、チェンジアップの質も高い。「自分のアピールポイントはストレートと変化球のキレ」と話し、「同じ大学の多和田さんとは少し、かぶっていて、大学時代から憧れている面が多かったので、多和田さんのように最多勝を取れるように頑張ります」と今季、16勝でタイトルを獲得した先輩を目標にした。
神奈川出身で向上高から、岩手県花巻市にある富士大に進んだ鈴木。それは自らの意思だった。
「関東の大学からも何校か(話が)来たんですけど、大学は地方に行くと決めていました(笑)。高校の時に思った結果が出せなくて、大学では野球を頑張ろうと思っていたんです。地方は誘惑がなく、野球をする環境にしては抜群かなと(笑)。関東の大学に行ったら、野球を頑張ろうという気持ちがブレそうで。そこまで意思が強くないので、怖くて。それなら、もう、環境に縛られちゃおうと思ったんです」
富士大はこの秋の北東北大学のリーグ戦で10連覇を達成。大学選手権には6年連続で出場中だ。2013年ドラフトで山川穂高内野手が埼玉西武から指名されて以降、外崎修汰内野手(埼玉西武)、多和田(埼玉西武)、小野泰己投手(阪神)と4年連続でプロ入り。ここ数年でじわじわと地方の強豪大学として名を馳せてきた。だが、鈴木が進路を考えている頃はまだ全国区に駆け上がっている途中。「富士大あるある」だが、鈴木も「富士大」と聞いて、静岡県にある大学だと思ったという。
高校までは外野手兼投手だった。富士大・豊田圭史監督は鈴木が3年夏の神奈川大会でレフトからバックホームし、走者を刺したボールを見て、投手として誘った。大学では投手で勝負したいと思っていた鈴木。富士大が岩手にある地方の大学であることも決め手になった。
向上高・平田隆康監督から「すごいピッチャーがいるみたいだから、学んでこい」と送り出された。その“すごいピッチャー”が入学した時に4年生だった多和田だった。3年生には小野もいた。「ちょうど、先輩にプロでも通用するような2人がいたので、自分がどのレベルまでいけばいいのかが明確になりました」。雲の上だったプロの世界。そこに挑もうとする先輩が身近にいたことで、ぼんやりとしていた輪郭がくっきりと見えてきた。
「プロのレベルを間近で見たことがなかったので、どのくらいのレベルなのか、わからなかった。ここを目指そうと思えたので、いい刺激になりました」
大学2年までの球種はストレートとカーブのみ
大学2年まで投げていたのはストレートとカーブのみ。スライダーを投げ始めたのは3年春からだ。「みんなと同じ握りでは投げられなかった」と試行錯誤。人差し指と中指をくっつけると投げにくく、「なんで、それで投げられるんだろう」と思ったという。そんな時、写真で目にしたのが、ドジャース・前田健太投手のスライダーの握りだった。それはツーシームの握りで人差し指と中指が離れていた。
「前田健太さんが指をくっつけず、離してスライダーを投げていたんですよ。真似して投げたらめちゃめちゃよくて。人差し指で最後、切るようにパッと投げるんです。前田健太さんのお陰です(笑)。別に、握りとかみんなに合わせる必要はないんだなと学んで、変化の握りは全部、自己流です。自分、オーソドックスな握りで投げられないんですよ。チェンジアップはだいたい、OKボールだったりするじゃないですか。それだと投げられなくて。で、こうです」
ボールを中指と人差し指で挟み、フォークボールの握りのようだが、「手首を立てるとフォークになりますが、手首を立てて投げられないんですよ。手首を寝かせたらチェンジになるので」。大学3年春に立教大・田中誠也投手のチェンジアップを見て習得しようと夏場に練習し、秋から使い始めた。鈴木は人よりも手が大きく、指も長く、手首を立てることも苦手。「人じゃないのかも」と笑ったが、諦めずに自分の手に合う握りを探し、より良いボールを投げるために工夫してきた。
手が大きい理由を「ピアノかも」と言った。兄を追いかけてソフトボール、野球をやり、姉を追いかけて書道、水泳、ピアノに励んだ小学生時代。低学年から6年生まで続けたピアノは、中学校の3年間、合唱コンクールの伴奏を任された。会見ではピアノを始めたきっかけと十八番を聞かれ、「姉が小学校の頃にやっていて、自分も真似をして始めたのがきっかけです。十八番? 中学校の合唱コンクールで弾かせていただいた大地讃頌を十八番にしております」と笑った。
「野球を頑張りたい」と意気込んで飛び込んだ大学では、怪我やフォームに悩まされた。順風満帆な歩みではなく、「2年生の時だったら遊びに走っていたかもしれない」と言ったことがある。葛藤を乗り越え、諦めなかった結果は3年春に表れた。
ターニングポイントは3年春の東京ドーム
「自分の人生のターニングポイントは3年の春の東京ドームで投げた、福岡大の試合だと思うんです。あの試合でなんか、自信になったっていうか。多分、あの試合を投げていなかったら、今の自分はいなかったかなって思えるぐらいの大きい試合でした。あれはゾーンに入っていました(笑)。全国の舞台で投げられた経験、自分が投げて逆転して勝ったという経験、三振もいっぱい奪えて、あの試合になんかいっぱい詰まっていて。あそこから球速も10キロくらい上がったんです」
全国大会で通用した自信が踏ん張らせた。その後、順調に階段を上ったかといえば、そんなことはキレイな話ではなく、悩み、苦しみながらの学生野球だった。大学生は即戦力と考えられがちだが、まだ完成された投手ではない。伸びしろ、将来性というのは何も高校生だけに使うものでもない。
富士大・豊田監督が鈴木に休日の過ごし方を聞いた時、「だいたい、練習していますかね」と返ってきたという。
「テレビとかで野球を見ていると、野球をしたくなって我慢できなくなっちゃうらしいです。野球中毒だなって(笑)。それを聞いた時に、あ、こいつ、やっぱり、なんとかしてやらないとダメだなって感じたんですよ」
この秋のリーグ戦が始まっても、豊田監督は鈴木の進路を真剣に悩んでいた。この野球小僧を何とかしてあげたい、と。8位とはいえ、プロはその力を評価し、スタートラインに立った。
「まだプロ野球という世界がどんな世界なのか、想像はできないんですけど、少しでも長く活躍してファンの方々に応援していただけるような選手になりたいです」。意気込みをこう語った鈴木。ドラフト8位から最多勝投手を目指す。
(高橋昌江 / Masae Takahashi)
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