“甲斐キャノン”誕生秘話 「野球を続けるか、続けないか」から“奇跡”のプロ入り

Full-Count 福谷佑介

2018.11.5(月) 17:57

今季の日本シリーズMVPに輝いた福岡ソフトバンク・甲斐拓也※写真提供:Full-Count(写真:藤浦一都)
今季の日本シリーズMVPに輝いた福岡ソフトバンク・甲斐拓也※写真提供:Full-Count(写真:藤浦一都)

2010年ドラフト指名で97人のうち94番目

 2年連続の日本一に輝いた福岡ソフトバンク。球界屈指の選手が集まる常勝軍団にあって、日本シリーズで一躍脚光を浴びたのが甲斐拓也捕手だった。第1戦から6連続盗塁阻止の日本シリーズ記録を樹立。広島の武器である機動力を完全に封じた“甲斐キャノン”は、瞬く間に全国に知れ渡ることとなった。

 その甲斐が、千賀とともに育成選手の出身であることは、すでに知られたところ。2010年の育成ドラフト6巡目での入団だったが、この年のドラフト1位が同じ高卒捕手の山下斐紹(現東北楽天)で、2位が主砲に成長した柳田悠岐、そして育成4巡目が千賀滉大、同5巡目が牧原大成、そして甲斐だった。この年、支配下と育成を合わせて12球団で97人が指名を受けたが、甲斐の名前が呼ばれたのは94番目だった。

 無理もない。そもそも、楊志館高3年夏の大分県大会が終わった時点で甲斐がプロに指名される可能性は皆無に近く、プロに指名されたことが“奇跡”のようなものだった。高校通算40本塁打を放ったが、2年夏の大分県大会は準々決勝で1歳年上の今宮健太擁する明豊高に敗戦。3年夏はまさかの初戦敗退。甲子園に縁はなく、プロのスカウトの目に触れる機会もほぼなかった。

 ノーマークだったのは、のちに育成選手として指名する福岡ソフトバンクも同様だった。「進路にプロという選択肢なんてあるわけがなかった。それよりも、野球を続けるか、続けないかの選択でした」。予想以上に早い7月下旬で高校野球を引退。周りが1人、また1人と進路を決める中で、甲斐自身は大学進学か、それとも就職か、と決断を下せないままでいた。

 そんな甲斐に“奇跡”が起きる。野球部監督の宮地弘明氏は、進路を決めかねている甲斐の姿を見て、九州を本拠地とする福岡ソフトバンクの九州担当・福山龍太郎スカウトに連絡を入れた。甲斐のプレーを一度見てやってくれないか、と願ったのだった。

“ノーマーク”の高校生が、恩師の電話でプロへの道を拓く

 福山スカウトは宮地監督の願いを聞き入れた。「宮地監督から電話があって『見てもらえることになったから、体動かしとけよ』と」。奇跡的に実現した“テスト”。その8年後に日本中を驚愕させるスローイング面などを評価され、ようやく福岡ソフトバンクの獲得候補リストに「甲斐拓也」の名前が入った。

 その後、編成担当者などのチェックも受け、育成ドラフト6位での指名に滑り込んだ。甲斐にとって幸運だったのは、2011年からホークスが本格的に「3軍制」を稼働させる予定だったこと。一芸に秀でた選手を中心に相当数の育成選手を獲得する計画があった。数々の巡り合わせがあって、甲斐拓也はプロの世界に導かれた。

「僕なんて絶対にノーマークのノーマークでしたよ。宮地先生の力があったから今の僕がいる。宮地先生がいなかったら、絶対に今の僕はいません」と振り返る甲斐。同期の千賀が、地元のスポーツ用品店店主の推薦で福岡ソフトバンクから育成4位で指名されたのは有名な話だが、甲斐もまたノーマークのところから、不思議な運命によってプロの世界へ道が拓けたのだった。

 ノーマークの高校生から、数奇な巡り合わせにより、プロ野球選手に。入団後は育成選手として数々の苦労と鍛錬を重ねて支配下契約を勝ち取り、そこで満足もすることなく、ここ4年間で3度の日本一となった常勝福岡ソフトバンクの正捕手となった。さらには、侍ジャパンの「扇の要」ともなりつつある。高校3年の夏に起きた人生の転機。あの時、恩師がスカウトに連絡しなければ、スカウトがその願いを断っていたら、プロ野球選手の甲斐拓也、そして“甲斐キャノン”は誕生していなかった。

(福谷佑介 / Yusuke Fukutani)

記事提供:Full-Count

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