「最後の近鉄戦士」と呼ばれて。 坂口智隆が見た球界再編

パ・リーグ インサイト 海老原悠

2024.11.27(水) 15:00

坂口智隆さん【筆者撮影】
坂口智隆さん【筆者撮影】

 福岡ソフトバンク和田毅投手が引退し、スポーツ紙の見出しには「最後のダイエー戦士」と踊った。“最後の◯◯”と言われることは、長きにわたって活躍してきたことの証で、一時代の終わりを見届けた生き証人としての名誉の二つ名である。

 では「最後の近鉄戦士」と呼ばれたこの男はどうだろう。

 坂口智隆。2002年大阪近鉄バファローズにドラフト1位で指名され入団、2004年に球界再編の煽りを受け、分配ドラフトでオリックス・バファローズに移籍。2022年東京ヤクルトスワローズで引退するまでの19年間、バッターボックスに立ち続けた。引退セレモニーでは、「最後の近鉄投手」と呼ばれた近藤一樹氏が花束を渡したことで、ヤクルトファンだけでなく往年の近鉄ファンも胸を熱くした。

 坂口さんを語るときに必ずついてまわる“最後の”という枕詞だが、本人の心中やいかに。今回球界再編20年という節目の年に、坂口さんに近鉄所属当時の話から聞くことができた。

 2004年、シーズン真っ只中の6月に入ってきた「オリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズ球団合併」の報せ。まさに球界を揺るがす出来事の序章だったが、選手たちにはどう広まっていったのか。坂口さんは「もう20年も前のことなので、記憶もおぼろげですが」と切り出した。

「報道よりも先に噂が(耳に)入ってきたのですが、球団経営が危ういどうこうよりも、『大阪近鉄バファローズじゃなくなる』という話だった気がします。それが合併なのか、チームの新規参入なのかは定かではなかったです。ただ、『これからどうなるんやろう』と選手同士で言い合っていた期間が長かったのは覚えていますね」

 しかも坂口さんがいたファームに情報が降りてくるまではタイムラグがあり、「報道で知ることも多かった」のだそうだ。それでも「12球団制を守りたい」とする選手会の姿勢は、坂口さんにも伝わっていた。

「特に礒部(公一)さん、古田(敦也)さんたち選手会長は、話し合いから帰ってきてそのまま試合をしないといけないし、試合後は自分たちのケアや練習に時間を使いたいだろうに、すぐにまた話し合いに駆けつけていて、すごく大変だっただろうと思います。例えば(古田さんなら)相手バッターを抑えるために配球を考えているのに、試合終了5分後にはその対戦相手と同じ議題で同じ方向を目指して話し合っているんですよ。凄いことです」

 プロ野球選手は個人事業主としてプレーし、チームで与えられた役割を全うすることが仕事であるにもかかわらず、自分のこと以外で費やす時間が多くなってしまう。その厳しさを、当時の選手会長たちと同じ年齢になったときにつくづく感じたのだと坂口さんは話した。

 もうひとつの球団合併の噂、選手会による署名活動、ストライキ敢行、新規参入球団の話など、球界に関する情報が、日々目まぐるしく変わる。新しい報道から噂レベルの報道も自然と耳に入ってくる。だが選手は変わらず毎日グラウンドに立たなければならないし、結果を残さなければならない。バッターボックスに立っている時間はこうした雑音が消えていた。

「不安はもちろん選手みんなあったと思います。僕はまだ入って2年なんで、『今後プロでできるんかな』っていう気持ちや不安が一番強かった。球団が合併したとしても選手の人数が多いので、そこから人数削られていくんだろうなと考えてしまい、気が気ではなかったです。だから“分配ドラフト”という制度を聞いて安心しました。選手会の方たちは僕ら若手の道筋まで話し合ってくれたわけですから、もう感謝しかないですよね」

近鉄とオリックス、チームカラーにギャップは?

 坂口さんは分配ドラフトの結果オリックスへ入団。当時のことをこう振り返る。

「転校生みたいな気持ちでしたが、早く仲良くなれた気がします。入ったばかりのときには選手同士で『お互い大変やったね』みたいな話をしました。ブルーウェーブからの選手でよくしゃべっていたのは、同級生で高校時代に試合をしたことがあったキャッチャーの長田(勝)。それから嶋村(一輝)さん、肥田(高志)さん、小川(祐介)さんも。あとはフレッシュオールスターで一緒になった選手とか、結構つながりがあったんですよ」

 近鉄の「いてまえ打線」に「猛牛軍団」というイメージや、同じ関西を本拠地としていたチームのせいか、比較されることは多く、移籍後も周囲からは「チームカラーのギャップ」についてよく聞かれたという。

「周りが言うほど、僕はそんなにギャップを感じなかったですよ。もちろん場所が違えば多少の違いはありますが、僕はその場の環境に合わせてやっていけちゃうタイプなんです。それに“人”で見たらそんなに大きく変わることってないじゃないですか。一緒にご飯食べたら同じ野球人なんでね」

 すぐに新チームに打ち解けた坂口さんも、一度だけ戸惑いを感じたことがあったという。それが合併後初めての秋の練習。「合併直後だったので、一緒のチームなのにユニフォームが別だったのは違和感ありましたね。近鉄とオリックス、2つのユニフォームで合同練習したんです」

 パ・リーグインサイトで、以前楽天イーグルスの初代球団代表の米田純氏に取材をした際に、初年度のイーグルスの秋季練習でまだチームユニフォームができていなかったため、突貫で発注した高校球児のような白いユニフォームで練習を行ったというエピソードを聞いた。その話を坂口さんにしたところ感慨深そうにこう述べた。

「選手としては、やはりそういうところで球団消滅を実感したんじゃないでしょうか。僕も感じました。『あぁこれが球団合併か』って」

「最後の近鉄戦士」と呼ばれて

 2022年、東京ヤクルトでの引退セレモニーでは、「近鉄最後の投手」で1年先輩の近藤一樹氏から花束を手渡された。何かと縁のある仲良しの近藤氏のことになると、坂口さんも頬が緩む。

「近ちゃんのことは高校生のときから知っていて、写真も撮ってもらっていたんです(笑)。近鉄の寮で僕の指導係をしてくれて、そこからずっとかわいがってもらっています。オリックスで一緒になって、ヤクルトも僕が行ったタイミングで来てくれたので、セレモニーは嬉しかったですね。近鉄ファンの方にも喜んでもらえたんじゃないかなと」

「最後の近鉄戦士」と呼ばれるようになった2020年以降を振り返ってもらうと、「最初は僕でいいんかなと思いました」と謙遜する。

「近鉄では一軍で8試合しか出ていないし、ファンの方とかベテランの選手に比べると、在籍年数が少ない分思い入れって少ないじゃないですか。それなのに試合出ているときには絶対テロップがつくので、それを背負ってしまっていいのかなとずっと思っていたんです。でももう最後は、球界に入れてもらった球団への恩返しを、僕はそのテロップを出すことしかできないのではないかと思うようになりました」

 プロ野球選手にしてくれた球団への恩返し、そして近鉄オールドファンへの恩返しの意味もあったという。

「近鉄ですごいエピソードや記録があるわけでもないので、そのテロップをテレビに映し続けるっていうのが、近鉄ファンへ僕が唯一できる恩返しかなと思ったので、自分が辞めると決めるまでは(テロップを)出し続けたいという気持ちがありました。球団が消滅したことで野球から離れてしまった近鉄ファンもいますし、複雑な思いで野球を見ているファンもいると思うんですよ。でも、『坂口は近鉄やったし』ってヤクルト戦を見てくれる人がいるのも知っていたので。そのテロップが出ることで、また野球っていうスポーツに触れてくれればなと」

 大阪近鉄バファローズという球団は時代の荒波に飲まれてしまったが、DNAはオリックス・バファローズに脈々と受け継がれている。わかりやすいのは応援歌だろう。

 近鉄時代から使用されているチャンステーマ「タオル」、「丑王」の『紅蓮の魂を 滾らせ』、「丑男」の『真紅と蒼の魂を 炎と燃やして攻めろ』という一節。坂口さんがその火を絶やすまいと灯し続けた猛牛魂は、たしかにファンのなかで生きている。

取材・文 海老原悠

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