12球団に新しい風を吹かせる。米田純氏に委ねられた使命
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新球団・東北楽天ゴールデンイーグルスの船出はまさに荒れ模様の航海だった。2004年11月2日に参入が正式決定し、約2週間後にはドラフト会議が待っていた。その前週に行われた分配ドラフトによる既存戦力の分析もままならないまま、チーム編成は急激に進んでいったことになる。一方で、プロジェクトスタート時には3名しかいなかった球団職員は、藤井寺球場での人材採用の甲斐あって徐々に増えていった。
こうして急ピッチで物事が決まっていったのを、米田氏は「プロジェクトX的な感じ」と客観的に振り返る。「『0から俺たちで作るぜ』という気概があったので、野球を知っている・知らないとかは関係なく、『とにかくいつまでに何をやらなければ』という使命感が強かった」と話す。
チームとNPB間の調整も米田氏の役割だった。チーム側だけでなく、パ・リーグの理事も務め、多くの決め事に米田氏は翻弄されることになる。
「自分たちも12球団の決まりの中で動いているということなので、好き勝手なことはもちろんできません。相手があって試合するわけですから。その辺も僕のそれまでのビジネス人生ではなかったので、驚きもあったし、新鮮でもありましたね。連盟関係のところでいくと、近鉄バファローズが消失したことで、それまではプロ野球だけが赤字を本社の宣伝費として補填できるという特殊な業界だったのが、それは正しくないということになり、球団ごとに自立して経営をしていかなければいけないと話をしました」
米田氏の理事としての使命は、12球団に新しい風を吹かせることだった。新しい形の経営や、新しいプロ野球のスタイルを作り上げていくべく、米田氏はさまざまな提案をしたという。レンタル移籍もその一つだ。
「現在、ファーム・独立リーグ間で行われていたり、現役ドラフトという制度で実施されていますが、活躍できない、日の目を見ないファームの選手を、引き上げる制度を提言し続けていました。時間はかかりましたが実現してよかったと思っています」
編成は心臓部。ほとんど口出しをしなかった野村克也氏
在任中、田尾安志氏から星野仙一氏まで4名の監督と関わってきたが、一番印象的なのは野村克也氏だったと話す。
「2006年から2009年までの間で、話に聞いていたID野球を体験し、すごく勉強になりましたし、実際に結果として2009年に初めてAクラス入りしたことで印象に残っていますね。それとは対照的ではないですが、野村さんとは違う選手へのアプローチの仕方をされていたのが星野さんだったので、この2人はすごく印象に残っています」
また、野村氏は選手の獲得についても編成に一任していたことも印象的だったという。
「僕がいた時は、『マネーボール』が出始めた時代で、お金を使って選手を取るというよりは、データ野球で勝つことを目指し、MLBのオークランド・アスレチックスと提携しました。そこに野村さんはすごくマッチしていて、決して『この選手をとってくれ』と野村さんは言わなかったですね。与えられた選手で勝つのが僕の仕事だからという考え方でした。編成は心臓部だといつも言っていましたが、この選手を取ってくれという要望は一切なかったですね」
一方ドラフトでは、2006年に田中将大投手、嶋基宏選手、渡辺直人選手、永井怜選手が入団したことで、岩隈・永井・田中の投手三本柱ができ、守備の要として嶋を据えることができたことで「ドラフトに救われました」と話す。
「ただ、長いプロ野球の歴史の中で考えるのであれば、この選手が取れたという一時的な成功より、どういう選手を取るべきかという方針を明確にしていかないと、本当に強いチームにはならないだろうと思っていました。歴史の浅さ、経験のなさが僕らの弱点だったので、早くそこを仕組み化して、常勝チームになるための基盤作りを考えていました。そんな中でも、初代編成部長の広野功さん、王者・ライオンズを作ってイーグルスに来た楠城徹さんのメソッドは勉強になりましたね」
チームが手作りであるという実感
今年20周年を迎えたイーグルス。今江新監督が誕生し、新しくスタートを切ったチームや野球界に対して期待されていることを尋ねた。
「あのときの気持ちだとか、こうやって球団ができたことを知っている方々もいるのでそれは忘れずに、手作りの球団であるということを特徴として伝えていってほしいです。加えて、強いチーム作りをやってほしいなと思います。バファローズさんが3連覇したじゃないですか。やっぱり一緒にできた球団なので意識はしますよ。バファローズより先に日本一になったんですけど、先に常勝チームを作ったのはバファローズだと思うので、そこはちょっと悔しさもあります。ぜひイーグルスも常勝チームになってほしいなと思います」と発破をかけた。そして今の選手は本当に恵まれていると目を細めて話す。
「当初、二軍の球場がなくて山形で二軍の試合をやるようになったのですが、風呂場がなくコインシャワーだったんです。チーム責任者としては、あの時にちゃんと設備が整っていたら、もっと活躍できた選手もいたのかなという思いもあり、旬だった選手に対してはすごく申し訳なかったという気持ちは今でもあります」
米田氏の手で〈らーめん山頭火〉がアメリカ出店。海を渡る旭川ラーメン
チームを離れたタイミングは、自身が50歳に突入するタイミングでもあった。米田さんいわく、「最後の勝負」。
「星野仙一監督の1年目が始まる直前に東日本大震災が起こり、考えさせられることはすごくありました。個人的に震災復興ボランティアをやっていたのですが、そのとき一緒に行ったのが〈らーめん山頭火〉(以下、山頭火)の畠中仁社長(現会長)だったんです。一杯のラーメンのちからはすごい。やっぱり食べることが必要だし、食べることはイコール生きることなんだってすごく感じました。なので次の道は、食に関することをやりたいと思っていたし、50歳で最後の挑戦をしたい。50代で成し遂げたいという気持ちがあったので、次のキャリアを考え始めました」
50歳直前の2012年に退職する予定だったが、引き継ぎのために1年ずらした。
「ところがその年に優勝したんです。田中将大投手が24連勝した年ですね。前年に辞めなかったからみんなと一緒にスタジアムで優勝記念の写真も撮れましたし、良かったです。設立から見ているだけあって実に感慨深いものがありましたね」
選手やスタッフと喜びをわかちあい、多くの人と知見を残して仙台の地を去った米田氏が、新たな商材として選んだのは、転職のきっかけを与えてくれた山頭火だった。
「日本の食を海外に伝える仕事をしたいと思ったのです。BtoCの仕事をしたいっていうのがあったのと、あとは世界を舞台にビジネスをしたいなと。球団のときもアメリカへよく行きましたが、空気が合っているなと感じていたので、ここでぜひやりたいと思っていました。すると山頭火からそういう契約のチャンスをいただけたので、自分の会社を設立して山頭火のアメリカ出店を手掛けることになりました」
現在、山頭火はアメリカ国内で6店舗展開しているが、それ以外に、焼肉の〈牛繁〉の出店を手掛け、さらにもう1店舗直営店をオープンさせる予定もあるそうだ。それ以外に、日本野菜を作る東京ドーム5個分ぐらいの農場を、事業承継という形で買収。いわゆる生産から消費まで、トータルで日本食をプロデュースできるような会社にしたいというのが米田氏の理想だ。
球界新規参入の経験は、脈々と米田氏の中で生き続けている。それは会社を立ち上げるという馬力が必要なケースでも発揮されているという。
「最後の勝負といいますか。当時50歳だったので、最後に自分の会社を作りたいと思いましたし、失敗してもいいやと思っていました。それは、楽天野球団を作ったという自信が、そうさせてくれたんだと思うんですよね。球団を作ったことで絶対に諦めなければ何とかなるということを教わったので、そこに自信があったんです」
球団の設立に携わった人々は、現在もさまざまな界隈で活躍している。
楽天野球団の代表取締役社長を務めていた島田亨氏(現投資家)、小澤隆生氏(元ヤフー社長)、岸田祐介氏(現スターフェスティバル社長)、少し遅れて入社した南壮一郎氏(ビズリーチ創設者)もチーム・イーグルスだった。さらには、現在千葉ロッテマリーンズの球団社長を勤める高坂俊介氏は、楽天本社の内定者アルバイトとして半年間立ち上げに携わっていた。
「この前、初期メンバーと同窓会をやったんです。久しぶりに会ったメンバーがそれぞれの道で活躍していることに『これってすごいことだね』と(笑)」
20年の月日は、会社も人員構成もチームもガラリと変える。変わらないのはチームの勝利を願う気持ちと、苦楽をともにした同志との美酒の味なのかもしれない。
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