六本木ヒルズの会議室「プロ野球準備室」から始まった球界参入作戦 初代・楽天野球団代表 米田純氏に聞く、球界再編から20年の歩み

パ・リーグ インサイト 海老原悠

米田純氏 (C)PLM
米田純氏 (C)PLM

 2004年はプロ野球史に残る1年となった。1月の日本ハムファイターズの北海道本拠地移転から始まり、近鉄バファローズのとオリックス・ブルーウェーブの経営統合、1リーグ制の危機、球界初のスト決行。2リーグ制の維持のために新規チームを募り東北楽天ゴールデンイーグルスが誕生と連日世間を賑わせた。

 いまはその頃を知る選手も関係者も少なくなってきたが、球団再編から20年の節目の年である今年、あらためてこの出来事を振り返ろうと思う。今回は楽天イーグルス発足の要人、楽天野球団初代代表・米田純氏に話を聞いた。

◇ ◇ ◇

楽天入社半年で「球界参入、やる?」

 米田氏は、1963年神奈川県生まれ。早稲田大学を卒業後にセゾングループ傘下の西武百貨店に新卒入社をする。紳士服売り場での4年の経験を経て、営業本部のマーケティング部門を担当した。

 転機が訪れたのは2003年の2月のことだった。

「西武百貨店で、一度購入したお客様にリピーターになってもらうためにどうするのか、既存顧客をどう活性化するかというリテンションマーケティングを担当しました。それを百貨店ではなく、デジタルの世界でやりたいと思い始めた時に、楽天という企業と出合いました。ちょうどそういった部署を作ろうとしていたようで、(楽天創業者でイーグルスオーナーの三木谷浩史氏と)意気投合して入社に至りました」

 当時、時代の寵児としてメディアでも大きく取り上げられる楽天に入社を決めたが、楽天が球団を持つようになるとはつゆとも知らなかったという。入社後はメンバープログラム部の立ち上げに参画。ポイントプログラムのプロモーションを担い、2004年の春頃には軌道に乗せた。

「その年の夏頃から近鉄球団の消滅の話が浮上しましたが、そこまで楽天で球団を持つという話は全然なく、私自身も『そうか、球界再編が始まったのか』という目で見ていました。ある時、社長室長に呼ばれ、「もし球界参入することになったらやる?」と聞かれ『それはもちろんやりますよ』と二つ返事で答えましたね」

 野球界に携わることは米田氏の積年の夢だったという。
「西武百貨店在籍時にも、西武ライオンズの優勝セール企画を担当し、なんとかライオンズで仕事ができないかと西武の球団代表に交渉したことがありましたが、できなかったことなので。もちろん、デジタルマーケティングに従事しようと楽天に入っていますから、またアナログなところに行くのかという気持ちも少しはありました。でもそれ以上にプロ野球の仕事がしたかったんです」

 新規参入するにもベースがない状態からのスタートだった。堀江貴文社長(当時)率いるライブドアも新規参入に動いているという情報ももちろん耳にしていた。

「ただ僕らはもう自分たちが参入するもんだと思って、『プロ野球準備室』というプロジェクト名で監督などの組閣準備をしていました。まだ(ライブドアと)どっちになるかはわからなかったですが、やるつもりでしたね。2004年の春に引っ越した六本木ヒルズのオフィスの、シドニーという会議室で寝ていたことはいまでも思い出しますよ。大変だけどみんな上り調子というか、生き生きとしていたんです」

 米田氏39歳のチャレンジ。米田氏を除いたプロ野球準備室のメンバーはわずか3名ほどだったという。

「秋季練習? 何やるんですか?」ゼロからの出発に困惑

(C)PLM
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 当時を思い起こすと大変なことだらけで、とにかく何をやればいいのかわからなかったと米田氏は笑う。

「僕は、マーケティングが専門ですが、それはもう一切マーケティングの“マ”の字も出てこないような仕事内容で。例えばチームの運営で、どこのホテルに泊まって、部屋を決めてとか、ホワイトボードをどのフロアに置くのかとか、他の業界でどこも通用しないようなメソッドです。こういう世界があるんだと思いました。僕は大学時代に準硬式野球をやっていたものの、プロ野球の選手だったわけでもなければ裏方で働いていたわけでもないので、そういう意味ではド素人ですよね」

 わからないなりにも、選手に練習の環境を与えるための組織を作るということが一番の使命だと感じていた米田氏だったが、特に苦労したのはその「人を集め」だったと話す。

「近鉄やオリックスからうちに残ってくれたスタッフの方もいましたし、それ以外にも他球団からスタッフが来てくれましたが、新規雇用のための面接をするのが大変でした。一番に思い出すのが藤井寺野球場でやった秋季練習です。11月2日に参入が決まって、キャンプインまでの間に、初代監督の田尾さんがどうしても1度選手皆で集まって練習がしたいと。でも練習するにも、まず場所がない、ユニフォームもない。そもそも『秋季練習? 何やるんですか?』と、全然僕らもわからなかったので、とりあえず弁当を用意すれば『いやいや、弁当じゃなくてケータリングだから!』と、そこから(笑)」

 近鉄の計らいで、藤井寺球場は無料で貸してもらい、スタッフの確保のために練習の傍らで面接を行った。分配ドラフトの選手が仙台へ引っ越すための仙台の不動産会社にも球場に来てもらい、出張不動産説明会をやるほどの状況だった。時間もなければ人手も足りない。

「人材不足は事業側だけでなく、チーム側もでした。バッティングピッチャー1人以外は、野球部ではない普通の慶應の学生をツテで集めてバッティングマシンにボールを入れたり、ボールを拾ったり。しまいには田尾さんも投げて、僕は球拾いしてという状態でした。手弁当も手弁当でいいとこですね。ユニフォームにしてもミズノさんがジャージみたいなものを用意してくれました。かろうじてチームカラーのクリムゾンレッドのラインが入っているだけの白いユニフォーム。下はみんな白いズボンだったので全身真っ白。背番号も背ネームもなく、高校生や大学生の練習着のような有り様でした。それでも、野球ができなくなるかもしれなかった選手たちが、もう一度プロ野球選手を目指した学生時代を思い出したようにも感じました」

 後編では、2013年悲願の日本一について。また現在は米国と日本の二拠点で暮らし、飲食業界に身を置く米田氏の現在の仕事について聞く。

<後編はこちら>

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パ・リーグ インサイト 海老原悠

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