打った瞬間だった。打球は様々な想いを乗せてレフトスタンドに突き刺さった。井口資仁内野手はゆっくりと味わうようにダイヤモンドを一周した。三塁を踏み終え、ホームに向かう時、うっすら笑みもこぼれた。5月25日。古巣ホークス相手に、かつての本拠地で通算250号のメモリアルアーチは生まれた。7対3と4点リードの5回1死1塁。1ストライクからの2球目。速球で押している投手の傾向から的を絞っていた。内角高めに入ってきた144キロのストレートをフルスイングした。背番号「6」にふさわしい高い弾道で、打球は遠くに飛んでいった。
「福岡でメモリアル。これもなにかの縁かな。8年間、プレーをさせてもらって思い出のたくさん詰まっているこの球場で打ててよかった。プロ1号もここだった。あの時は、ここまで打てる日が来るとは全然、思えなかった。プロでやっていけるのかなあ、レギュラーを獲れるのかなあといつも不安な時だった。いろいろな事があって今がある。でも、長いようで、あっという間かな」
プロ初本塁打は22歳の時。1997年5月3日。デビュー戦で満塁本塁打と衝撃のデビューをした。あれから月日は流れた。42歳と5か月。あの日の若者は同じ球場で節目の一発を同じくレフトスタンドの同じような場所に放ってみせた。積み重ねた数は250本。当時の自分には想像も出来ないほど尊い数字にまで到達した。
球場にはホークス・王貞治会長の姿もあった。ホークスでのルーキー時代は監督と選手。注目の大型新人選手として入団しながらもプロの壁にぶつかり、苦悩し、もがいていた時、誰よりも期待をかけ、指導をし続けてくれた指揮官の前で打てたことが嬉しかった。
当時、いろいろな方面から様々なアドバイスが飛び込み、混乱をしていた若者にとって王監督の助言はいつも心に残り、シンプルだった。自身の経験を元に伝えてくれた。「相手の投手が足を上げたら自分も足を上げる。投手が足を下ろしたら自分も足を下ろす」。気持ちが楽にさせられた事も多々あった。「フォームが完成をすることはない。毎日違う」。打撃スタイルの完成を追い求め、焦る毎日を過ごしていた井口にとって世界の大打者のこの一言で「打撃フォームは永遠に完成をしないもの。それでいいのだ」と開き直れるキッカケとなった。例えを出すことも多かった。「ゴルフでドライバーを打つような感覚で打てばいいんだよ」。「トス打撃の時のような感覚で打ってみろ」。そのたびにいつもハッとさせられ、感覚を掴んだ。
球場のお風呂で練習前や試合後に声をかけられることもよくあった。忘れられない言葉がある。シャワーを浴びていると、隣接するサウナ室から出てきた王監督が隣に立ち、何気ない感じでボソッと話し出した。「オレも若いころは三振王って呼ばれていたんだよ」。その言葉が当時、タイミングの取り方に深く悩んでいた井口の心にスッと入ってきた。世界のホームラン王と言われる大打者ですら悩み苦しんでいた時期があったことに気持ちが落ち着いていくのを感じた。
「球場には監督室にもお風呂があったと聞いている。今思うとボクらとコミュニケーションをとるために、わざわざ出てきてくれたのだと思っている」
そんな会話の積み重ねが井口を大打者へと成長させていった。様々な出会いを繰り返し、ついに球界最年長野手となり、メジャー通算44本。日本で250本。日米通算300号の金字塔も視野に入るほどの域に達した。
メモリアルの一発を放った試合後、携帯電話に王会長から連絡が入っていた。「おめでとうございます。体調にはくれぐれも気を付けて一本でも多く、打ってください」。偉大なる恩師からのメッセージを何度も読み返した。そして気持ちを新たにした。
「これからも1本ずつを積み重ねていきたい。そしてチームの勝利に貢献をしたい。まだまだ諦めず、上を目指していきたい」
5月30日から交流戦がスタートする。同じ年で日本球界最年長投手であるドラゴンズの岩瀬仁紀投手との対決の期待もかかる。そして様々な球場で本塁打を放ってきた井口にとってアーチを掲げていない球場がある。それは6月13日から横浜DeNAとの3連戦が組まれている横浜スタジアム。セ・リーグの本拠地では東京ドームで19本。広島で5本。甲子園で4本。神宮で3本、ナゴヤドームでは公式戦こそないものの日本シリーズで1本打っている。横浜スタジアムではオープン戦以外にはない。だから、この球場でアーチを掲げられるかという点も一つの注目のポイントになりそうだ。42歳5か月の球界最年長野手。まだまだやることがある。ファンに見せるべき姿がある。
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