緊張の連続…1軍登板は「えずきながら」 7勝挙げた2年後に引退、感謝する新庄剛志の優しさ

Full-Count 橋本健吾

2024.2.15(木) 07:20

元北海道日本ハム・鎌倉健氏※写真提供:Full-Count(写真:橋本健吾)
元北海道日本ハム・鎌倉健氏※写真提供:Full-Count(写真:橋本健吾)

3年目の2005年に7勝をマークも2年後に現役引退…元北海道日本ハムの鎌倉健氏

 一流プレーヤーの優しさは今でも覚えている。元北海道日本ハムの鎌倉健氏は高卒3年目に先発の一角として7勝をマーク。新庄剛志(現監督)ら個性的な先輩たちをバックにド緊張のマウンドを経験した。「プロの世界は厳しいこともありましたが、貴重な体験をすることができた」と、5年間のプロ野球生活を感謝している。

 鎌倉氏は2002年ドラフト3巡目で川之江高から北海道日本ハムに入団。本拠地が東京ドームだった2003年までに入団した最後の“東京戦士”の1人だ。ルーキーイヤーの2003年に1軍デビューを果たし、3年目の2005年には7勝をマーク。先発ローテの一角として期待されたが、2006年は7試合、2007年は1、2軍を通じて登板がなく現役を引退した。

 プロ野球人生は「緊張の連続」だったという。2005年に140キロ後半の直球とカットボールを武器に「トルネードサイド」の変則投法でブレークしたが「毎試合、登板直前までえずいていました。試合を壊してはいけない。何とか5回まで投げないといけない。自分でプレッシャーをかけていましたね」と振り返る。

 当時のレギュラー陣は捕手に中嶋聡、高橋信二、内野は金子誠、小笠原道大、外野には新庄剛志、稲葉篤紀、坪井智哉と錚々たる顔ぶれだった。「先輩方に打って守って、助けてもらいました」と、打線の援護もあり2005年は19試合に登板し7勝5敗、防御率3.72の成績を残した。

 なかでも、異彩を放っていたのが新庄(現北海道日本ハム監督)だったという。プレーもさることながら私服、車、スーツ、プレー中にも漂う香水の香り――。チームバスの席は新庄の隣の補助席が定位置だった鎌倉氏は「本当に芸能人みたいで衝撃を受けた。でも、僕もそうですが後輩たちを凄く可愛がってくれた」と感謝する。

新庄剛志から食事の誘い…後輩を引き連れ「なんでも好きなもの入れて」

 思い出に残っているのは広島との交流戦。試合後に突然「ご飯でもいこうか?」と、誘いを受けた。「ペーペーの僕たちが行っていいのか」と戸惑いながらも店に向かうと、何十人の後輩を引き連れた新庄の姿があった。会食後のコンビニでも「なんでも好きなもの入れていいよ。遠慮しないでね」と、ドリンクやデザートなどカゴいっぱいに詰めこんだ後輩の支払いを済ませ宿舎に戻っていった。

 一気に主戦格になるかと思われたが、厳しい現実が待っていた。同年オフに右肘手術を受け、2006年の春季キャンプでは痛みを我慢しながらの投球が続き、本来のフォームを見失った。制球を気にするあまり“イップス”を発症。思い切り投げ込んだ直球がブルペン奥のネットに突き刺さるほどだった。

「自分では絶対(イップスに)ならないと思っていたのですが……。精神面の弱さが出た。投げ方を忘れて、本来の投球を取り戻すことはできませんでした。僕の場合は技術じゃなく精神面だったと思います」

 2007年オフに戦力外通告を受け、12球団トライアウトにも参加したが獲得する球団は現れなかった。「もう投げないでいいと安心した気持ちと、まだできるんじゃないかと悔しい気持ち。区切りはつけないといけないので」。現役生活に別れを告げ、現在は兵庫・ヤングリーグ「東加古川レッドアローズ」の監督として、将来の野球界を担う子どもたちの育成に力を注いでいる。

(橋本健吾 / Kengo Hashimoto)

記事提供:Full-Count

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