試合が終了すると選手たちは一斉にマウンドに走り出した。大松尚逸選手もトレーナー室から飛び出すと、ベンチに向った。ただ、そこより先に歩を進める事は出来なかった。2010年11月7日。マリーンズはナゴヤドームでドラゴンズを破り、日本一になった。大松はその初戦で走塁中に右太もも裏を肉離れして、戦線を離脱。松葉杖姿で、仲間たちの抱擁を見守るしかなかった。そんな時、チームメートたちが駆け寄ってきた。一人が、しゃがむと「背中に乗って!」とおんぶをしてくれた。背負われながら、仲間たちが待つマウンドに向かった。暖かい背中だった。涙がこぼれ落ちそうになった。今季限りでマリーンズを退団することになった大松は、その時の光景は今も忘れられない。一番の想い出だ。
「なにか一つ、マリーンズでの思い出をと言われたら、あのシーンが思い浮かびます。みんながボクをマウンドまで連れて行ってくれた。マリーンズっていいチームだなあと感動したし、そんな仲間たちと一緒に野球をやれたのは本当に幸せな日々でした」
大松は今季、5月に右アキレス腱を断裂。シーズンオフにマリーンズの戦力構想から外れ、退団することになった。08年に24本塁打、91打点。その年から3年連続二ケタ本塁打を打つなど、左の長距離砲として貢献。その明るいキャラはチームのムードメーカーでもあった。チャンスに強い打撃で「満塁男」とファンに親しまれた。試合で活躍をした思い出は尽きない。しかし、一番に挙がった記憶は、試合に出られずに仲間たちが頑張っている姿をトレーナー室で見守り、最後は仲間たちの力を借りて向かった歓喜のマウンド。「ああいうのは忘れられない」と何度もつぶやいた。
「ブチッという音がした。重たい音だった。太いゴムが切れるような音。気づいたら転がっていました。アキレス腱を見たら、へっこんでいた。それで状況は理解できました」
今年5月、二軍の試合中に大怪我をした。しかし逆境に負けることなく前向きに闘った。松葉杖での生活となった。しかし、弱音を吐く事はしなかった。「落ち込んだら負けだと思っていた。必ず元に戻すと強い気持ちを持ち続けた」。自宅安静の時期はチューブトレを繰り返した。そして足の指のトレーニングや足の可動域を広げる動作に集中した。アキレス腱にいいと聞くコラーゲンなどの食材は積極的に取り入れた。
「チームの試合は見ていましたね。ただ、今までとは違う感覚だった。遠い場所という感じ。一歩下がった感覚で試合を見るしかなかった。それは少し辛かった」
9月に走れるようになるとギアを上げてのトレーニングを開始した。戦力構想から外れても、すぐに現役続行を決断。打球は鋭い弾道で外野フェンスを越えるようになった。背番号「10」の代名詞だった大きな弧を描く綺麗なアーチはすっかり元に戻っていた。まだ、やれる。確かな自信があった。
「打撃の状態は100%。足も順調です。今は足首の負担を軽くするため、股関節やお尻を使ってしっかりと走る方法にも取り組んでいます」
戦力構想から外れた2日後の10月4日のイーグルス戦(マリン)。同じ左打者として憧れ、可愛がってもらっていた福浦和也内野手が粋な配慮をしてくれた。大松が今まで使用をしていた登場曲に変更して試合に挑んでいたのだ。もう、この登場曲がマリンで響く事はない。だから、背番号「9」は自身の登場曲からこの日だけ、この曲に変更をした。後輩への想いが詰まった心遣いだった。
「直接は見る事が出来ませんでしたが後日、そういう事があったと、他の選手や知り合いが教えてくれました。福浦さんからも言われました。『オマエの曲、使わせてもらったよ』って。ジーンときました。ボクはもうマリンであの曲と一緒に打席に向かう事は出来ない。そんなボクの気持ちを組んで、一緒に打席に向かってくれたのだと思います。本当に嬉しかったです」
打席に立つことはなかったが一つ年下の根元俊一内野手もまた曲を変更して出番を待っていたと聞いた。大学ジャパンで意気投合して以来の縁。マリーンズに入ってからも切磋琢磨して頑張った間柄だった。マリーンズの仲間たちの温かさに感謝をした。おんぶをされ胴上げの場に導かれた時のように仲間のぬくもりに涙腺が緩んだ。そして、だからこそ、誓った。もう一度、グラウンドで暴れる事を自らの心に約束した。
「今の目標はどんな形でもいいので元気にユニホームを着て打席に立つ姿をこれまで応援をしていただいたファンの皆様、そして仲間たちにお見せする事。支えてくれた皆様のために打ちたい」
地獄を乗り越えた男にしか分からない人のぬくもりが、ここまでの自分を支えてきた。今の大松には強い決意と自信がみなぎっている。手ごたえはある。だから、立ちあがった。戦いの日々はまだまだ終わらない。
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