幼少期から際立った意志の強さ 恩師の語る鷹・尾形崇斗、土台を作った“研修所”

Full-Count 高橋昌江

2020.3.19(木) 17:31

福岡ソフトバンク・尾形崇斗※写真提供:Full-Count(写真:藤浦一都)
福岡ソフトバンク・尾形崇斗※写真提供:Full-Count(写真:藤浦一都)

尾形の小・中学生時代を知る竹内健二さん「アッパレだと思います」

 福岡ソフトバンクの育成選手だった尾形崇斗投手が16日、支配下登録選手に昇格した。この吉報に、出身の宮城県でも喜びの声が上がる。尾形が中学時代に所属した仙台広瀬ボーイズで代表を務めていた竹内健二さんは「1人の少年が出会った時の夢を叶えるスタートラインに立った」と静かに喜び、回想した。

 尾形は2017年の育成ドラフト1巡目で学法石川(福島)から入団。主に3軍でマウンド経験を重ね、空振りを奪える最速152キロの浮き上がるようなストレートに磨きをかけてきた。昨秋のフェニックスリーグと台湾のウインターリーグでも高い奪三振率をマーク。3年目の今季はキャンプからA組に抜擢され、アピールを続けてきた。オープン戦では5試合に登板。11回を投げ、防御率0.00と結果を残し、支配下登録を勝ち取った。

「好成績を出していたので情報を多く見聞きできるようになり、着実にこの機会が訪れていることを実感していました。小学生で出会った時には意志の強さを感じ、中学生では知る力の強さとその実行力に感心していました。その後も、自身で見聞を広め、自身で考察し、自身の責任において実践していると感じています。アッパレだと思います」

 こう話すのは、尾形の小、中学生時代を知る竹内さん。着実に夢に向かっていることに感慨し、仙台で登板する日を心待ちにしている。

 竹内さんと尾形の出会いは2010年。宮城県富谷町(現富谷市)で生まれ育った尾形は小学5年の時、家族に連れられて仙台市青葉区のJR愛子駅近くにある野球スクール「愛子硬式野球研修所」にやってきた。ここを運営していたのが竹内さんだった。「愛子硬式野球研修所」は2010年5月にスタート。尾形はここの2人目の研究生として、学校を終えると祖父の運転で毎日のように通った。

斧で立木を伐ったり自然に溢れた遊びの中で身体能力を育んだ※写真提供:Full-Count(写真提供:竹内健二)
斧で立木を伐ったり自然に溢れた遊びの中で身体能力を育んだ※写真提供:Full-Count(写真提供:竹内健二)

尾形が自然の中で身体を育んだ「愛子硬式野球研修所」とは…

 フィールドは竹内さんの自宅とその周辺の野山だ。青葉区愛子は仙台市中心部から秋保温泉や作並温泉、広瀬川上流に続く、自然豊な地域だ。「愛子硬式野球研修所」に通う子どもたちは斧で立木を伐ったり、薪割りをしたり、木登りをしたり、起伏の激しい1周3.8キロほどの山道を走ったりした。また、竹内さん宅の裏は、40メートルほど下に広瀬川が流れているが、その草木が生い茂る崖を木に巻いたロープで登り下りしたり、対岸の河原を駆けっこしたり。雪が積もればソリ遊びや雪合戦と冬を堪能した。

「岩の裏側に秘密基地を作ったりさ。魚釣りや魚獲りもして、ハヤを釣ったり、ヤツメウナギを獲ったりしたこともあったね。近所から竹をもらって竹馬も作ったり、木の枝で作ったパチンコや吹き矢で木の実を飛ばしたりもしました」

 2010年以降とは思えない自然に溢れた遊び。1949年に群馬県の北軽井沢で生まれ、六里ヶ原(浅間高原)で伸び伸びと育った竹内さんはこの「遊び」の中でこそ野球、スポーツに得られる基礎があると考えていた。

「大切なのは、自分を守るための防衛体力、防衛能力です。自分を守れなければ人も守れない。運動体力は平らなところで安全安心に運動していれば身につくけれど、防衛体力、防衛能力は不定形な野山を駆けずり回らないと身につきません。例えば、木の枝葉が目に入らないよう条件反射的に避け、より安全な通り道をとっさに判断する。後ろに人がいれば、石が崩れないよう危険な情報を伝える。雪合戦は雪玉を投げれば野球の投球、送球のコントロールに、来た雪玉を避けるのは反射神経や動体視力につながります。本来は健康などの用語ですが、これが私の言う防衛能力、防衛体力。これが身につくのは遊びの中でなんです」

 河原でゴツゴツした石の上を走れば、着地石に関する動体視力や捻挫防止の安全性判断力、身体部位の絶妙なボディバランスが身につく。草木が生い茂る40メートルの崖を木に巻いたロープで登り下りすれば、全身の筋力やバランス感覚が鍛えられる。木を伐ることや薪割りも、男子の破壊本能を引き出しながら自然と全身のトレーニングになる。だが、転ばぬ先の杖を与えがちな過保護の現代。見方が変われば、「危険」とも捉えられかねない。

「だから、お母さん方にあえては見せませんでした。冒険というのは親に内緒でやるからワクワクするもの。崖をロープで上り下りするのだって、落ちるような子はいません。子どもは本当に命に関わることはやらない。人間も動物だから本能を持っているんです。本能を出す機会がないと錆び付いてしまいます。子どもたちを野山に放っておくと、それだけで野球が上手になる資質が芽生えると思うのです」

友達を乗せてソリを引っ張る小学生時代の福岡ソフトバンク・尾形崇斗※写真提供:Full-Count(写真提供:竹内健二)
友達を乗せてソリを引っ張る小学生時代の福岡ソフトバンク・尾形崇斗※写真提供:Full-Count(写真提供:竹内健二)

勉強にも手は抜かず、もともと学力も高かった尾形

「愛子硬式野球研修所」という名前の通り、もちろん、野球のスキルアップにも励んだ。竹内さん宅の裏には投本間18.44メートルのブルペンがあり、ピッチングができた。また、ブルペンは防球ネットで囲まれており、ピッチングマシンを使った打撃練習も可能で、やはり防球ネットを張った駐車場スペースではティー打撃ができた。

 技術指導をしていたのは小野木孝さん。仙台工から1958年に国鉄スワローズに入団し、1軍で14試合を投げた元プロ野球選手。引退後は地元の宮城で子どもたちに野球を教えていた。「愛子硬式野球研修所」ではマンツーマンで選手を指導。尾形もその一人で、小野木さんから指導を受け、投打の基礎を身につけていった。

 尾形が中学生になると同時に「愛子硬式野球研修所」は中学硬式野球チーム「仙台広瀬ボーイズ」を発足。ボーイズとなっても平日は自然の中を駆け回り、順番が来たら小野木さんから技術指導を受ける形だった。休日は球場練習を行ったり、練習試合や大会に参加したりした。

 週に1回は、塾経営者による学習の勉強会も開かれた。勉強も手を抜かず、もともと学力も高かったが、尾形も参加していた。県内トップクラスの進学校に行ける実力を備えていたが、ボーイズの東北選抜に選ばれた時のメンバーから誘いを受け、福島県の古豪・学法石川に進学。私学で野球を中心にした青春を送る道を選んだのだった。

 学法石川ではプロのスカウトが注目する投手へ、成長の階段を上った。スカウトによって評価は割れたが、速球派投手としてドラフト候補に。甲子園には手が届かなかったが、2017年の育成ドラフト1巡目で福岡ソフトバンクから指名を受けた。

 2018年元日。数日後に入寮を控えた尾形は竹内さん宅を家族と訪れた。そこには小、中学生時代に一緒に野球をしたり、遊んだりした仲間も大勢、集まっていた。「仙台広瀬ボーイズ」は尾形が高校1年だった2015年に活動を停止。竹内さんと技術指導を行っていた小野木さんがほぼ同時に体調を悪くしてチーム運営ができなくなったのだ。チームの形がなくなって2年。竹内さん宅は久しぶりににぎわった。

作文に記した夢「一流の野球選手になること」

 尾形はかつてのチームメイトたちと思い出話に花を咲かせ、激励を受け、小野木さんの前でキャッチボールを披露した。この日のメインは餅つき。竹内さんの餅を返す合いの手に合わせて杵を何度も振り下ろし、できた餅に舌鼓を打った。その日、竹内さんは『夢』とタイトルが付いた作文を引っ張り出した。

『ぼくの夢は、一流の野球選手になることです。そのためには、高校までは体を大切にして、高校に入ったらしっかりとしたきつい練習などをしたいです。
 高校に入るまでには、きその土台をきっちりかためて走るのも守るのも打つのもすべて今よりすごく上手になりたいです。
 冬の今やるべきことは、下半身の筋肉をつけることと、ストレッチをして体をよく伸ばしておくことです。』(原文のまま)

 書いたのは小学5年だった尾形少年。夢は「一流の野球選手」とある。育成選手を“卒業”し、新たな背番号「39」でそのスタートラインに立った今、10歳から成長を見てきた竹内さんはこうエールを送る。

「きっかけというのはどこにでも転がっています。それをきっかけとして捉えて発展させ、精進するのは本人以外の何者でもありません。これからも人や環境との出会いを真摯に受け止めて発展させ、精進していけば、夢は叶い、更に大きな夢を描くことになると思います。夢を叶え、その次の夢に期待しています」

 小学5年で立てた夢。竹内さんはそこで歩みを止めず、「一流の野球選手」の先にどんな夢を持つのか、尾形が見据える未来を楽しみにしている。

(高橋昌江 / Masae Takahashi)

記事提供:Full-Count

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