7月末で53試合、平井投手の登板ペースを先人たちと比べると……
開幕直後から話題となり続けているその登板ペースは、はたして先人たちにも匹敵するものだろうか。埼玉西武の平井克典投手が開幕から場面を問わずに登板を重ね、時にはイニング跨ぎもこなす大車輪の活躍でチームの中継ぎ陣を懸命に支えている。7月31日時点での平井投手の成績は、次の通りとなっている。
53試合 4勝1敗21ホールド25HP 57回 51奪三振 防御率2.37
48試合を残して53試合に到達した平井投手の登板ペースはかなりの多さだが、過去にも年間登板試合数の日本記録を保持する久保田智之氏(元阪神)をはじめ、藤川球児投手(阪神)、浅尾拓也氏(元中日)、そしてライオンズの大先輩にあたる稲尾和久氏(元西鉄)のように、平井投手と同様に開幕直後からフル回転の活躍を見せた投手たちは存在してきた。
そこで、今回はシーズン登板数の上位記録を保持している投手たちの中で、その年にタイトルを獲得した4投手の7月31日時点での成績を紹介。先人たちに比べて平井投手の登板ペースがどのレベルに位置するのかを、7月末時点の数字から比較していきたい。
久保田智之氏(2007年)
7月末時点:55試合 3勝2敗29ホールド32HP 65回 67奪三振 防御率2.15
年間成績:90試合 9勝3敗46ホールド55HP 108回 101奪三振 防御率1.75
タイトル:最優秀中継ぎ投手
当時の球界を席巻したリリーフトリオ「JFK」の一員として活躍した久保田氏は、2005年にクローザーとして27セーブを記録し、チームのリーグ優勝にも貢献した。しかし、翌2006年にケガもあって抑えの座を藤川投手に譲り、自身はセットアッパーに配置転換。そして迎えた2007年、久保田投手は開幕からフル回転の投球を見せていく。
3月に1試合(防御率0.00)、4月に12試合(防御率1.62)、5月に15試合(防御率4.11)、6月に12試合(防御率0.59)、7月に15試合(防御率2.55)と序盤からコンスタントに登板を重ね、やや調子を崩した5月以外は安定した投球を披露。前半戦が終わった段階で55試合、29ホールドと一般的な中継ぎ投手なら1年間で記録するレベルの成績を残していたが、この年の久保田投手はここからさらにギアを上げ、前人未到の領域へと突入していく。
登板過多による疲労も懸念される中で、8月は17試合で防御率0.46、9月は16試合で防御率1.89、10月は2試合で防御率0.00と、終盤戦に入ってからさらに調子を上げる驚異のタフネスぶりを発揮。最終的にNPB史上最多となる90試合に登板し、リリーフながら投球回も3桁超え。防御率も1点台と安定感も抜群で、まさに球史に残る快投を繰り広げた。
藤川球児投手(2005年)
7月末時点:54試合 4勝1敗35ホールド39HP 63.1回 92奪三振 防御率1.14
年間成績:80試合 7勝1敗46ホールド53HP 92.1回 139奪三振 防御率1.36
タイトル:最優秀中継ぎ投手
現在、シーズン登板数のNPB記録を保持しているのは久保田氏だが、その2年前に当時のNPB記録を塗り替えていたのが、同じく「JFK」の一員だった藤川投手だ。それまでは2004年の26試合が自身最多の登板数となっていたが、後に「火の玉ストレート」と呼ばれるようになる剛速球を武器に、2005年に大ブレイクを果たす。
5月には13試合に登板して防御率0.00という素晴らしい内容を見せ、前半戦が終わった段階では先述の久保田氏を上回る素晴らしい成績を記録。これだけ登板を重ねながら4カ月間の月別防御率は全て1点台以下という素晴らしい安定感もさることながら、63回1/3で92個の三振を記録した奪三振能力は圧巻だった。
まさに大車輪の働きだった前半戦に比べると後半戦はやや登板ペースを落としたが、月別防御率は最も悪かった9月でも2.81で、それ以外は全て1点台以下と最後まで安定感を保ち続けた。チームのリーグ優勝にも大きく貢献し、自身の知名度も一躍全国区に。藤川投手にとっては後の活躍へとつながっていく、まさに大きな転機となる1年だった。
浅尾拓也氏(2011年)
7月末時点:42試合 3勝2敗21ホールド24HP4セーブ 44.1回 54奪三振 防御率0.61
年間成績:79試合 7勝2敗45ホールド52HP10セーブ 87.1回 100奪三振 防御率0.41
タイトル:最優秀中継ぎ、セ・リーグMVP、ゴールデングラブ賞(投手部門)
中継ぎ投手としてはNPB史上初となるリーグMVPとゴールデングラブ賞を受賞した、2011年の浅尾氏の投球はまさに圧倒的だった。この時期は統一球の影響でリーグ全体の打撃成績が大きく低下していたが、その中でも浅尾投手の投球内容は卓越していた。快速球と高速フォークで並みいる強打者たちをねじ伏せ、年間15四球という数字が示す通り制球力も抜群だった。
浅尾氏はセーブ数が示す通りに時折試合を締めくくる場面も挟みつつ、年間を通してリリーフ陣の大黒柱としてフル稼働を続けた。前半戦を終えた段階で42試合に登板して防御率は0点台と、まさに絶対的な存在として君臨。NPB史上最多のシーズン47ホールドを記録した前年(2010年)を上回る投球内容を見せ、当時のチームが見せていた「守り勝つ野球」の中心を担った。
浅尾氏の快進撃は後半戦に入ってもとどまることはなく、8月に14試合で11ホールド、9月に14試合で10ホールド(13HP)と、ハイペースで数字を積み重ねていった。年間で記録した自責点は4、8月以降は自責点わずかに1と、シーズンを通して驚異的な安定感を保ち続け、チームの最大10ゲーム差をひっくり返しての大逆転優勝の立役者の一人となった。
稲尾和久氏(1961年)
7月末時点:43試合 23勝6敗 223回 189奪三振 防御率1.65
年間成績:78試合 42勝14敗 404回 353奪三振 防御率1.69
タイトル:最多勝、最優秀防御率、最高勝率、ベストナイン(投手部門)
現在、ライオンズのシーズン最多登板記録を保持しているのが、埼玉西武の永久欠番「24」をかつて背負った稲尾氏だ。先述の3人はいずれもリリーフ投手だったが、稲尾氏は投球回が示す通り、先発として長いイニングを投げていた点で異彩を放っている。プロ入りからの8年間で524試合に登板し、2765イニングを消化。「神様、仏様、稲尾様」と称された1958年の日本シリーズでの4連投4連勝は、今なお伝説として語り継がれている。
そんな稲尾氏にとってもキャリアハイとなったのが1961年のシーズンだ。投手分業制が確立されていなかった時代とあって、先発30試合、リリーフ48試合と両方の役割に対応しながら、現在では考えられないペースでイニングを消化。前半戦を終えた段階で223回を投げて23勝6敗と、現代ならばそこでシーズンを終えてもMVP級の成績を残していたが、その後も稲尾投手はエースとして圧巻の投球を重ねていく。
最終的には78試合に登板して投球イニングは400回を突破し、防御率も1.69と驚異的な数字を記録。このシーズンに記録した年間42勝は、1939年のヴィクトル・スタルヒン氏と並んでNPB史上最高記録であり、投手分業制が確立された現代野球においてこの記録が今後破られる可能性は極めて低い。事実上のアンタッチャブルレコードを打ち立てた、まさに球史に残る1年だった。
年間を通してフル回転を続けた投手たちのその後の成績は……
平井投手の7月末で53試合という登板数は、久保田氏の55試合、藤川投手の54試合に匹敵する数字となっている。この2名がシーズン登板数の1位と2位であることを考えれば、平井投手はまさに記録的なペースで登板を重ねているとも言えそうだ。
年間を通してフル稼働した投手が翌年以降に成績を落としてしまうことは、プロ野球の世界では決して珍しくない。実際、先述した稲尾氏、久保田氏、浅尾氏の3名は、いずれも故障で投手としての寿命を縮めてしまっている。しかし、藤川投手はその後も長年リリーフ投手として活躍を続け、米球界挑戦やケガからの復活を経て、現在も阪神の救援陣を支える存在となっている。
はたして平井投手は、疲れの見えてくる終盤戦を乗り切ってキャリアハイのシーズンを送ることができるか。そして、勤続疲労が心配される来季以降も、継続して活躍を続けることができるだろうか。稲尾氏が持つ球団記録の更新も見えてきた新時代の鉄腕が今後も元気に投げ続けてくれることを、多くのファンが願っていることだろう。
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