埼玉西武、横浜DeNAで中継ぎとして活躍した長田秀一郎さん
プロ野球が開幕し、元プロ野球選手がコーチを務めるライオンズアカデミーも新年度がスタートした。埼玉西武で中継ぎとして活躍した長田秀一郎さんは、今年からアカデミーコーチに就任。新たな挑戦を始めた。
神奈川・鎌倉学園高では甲子園出場はなかったが、プロから注目を集める存在だった。同じ神奈川の同級生には横浜高・松坂大輔投手(現中日)がいたが、大学進学を希望していたため特に意識をすることはなかったという。
「ドラフトで指名はなかったですが、指名があっても、両親が六大学で野球をやってほしいという希望を持っていたので、大学に進学すると学校には伝えていました。3年の夏は自己推薦書を書きながら『横浜勝ち進んでるな』と思っていましたけど、テレビで見るだけでした」
慶応大から2002年ドラフト自由枠で埼玉西武に入団。松坂とチームメートになったが、この時も特に意識をすることはなかった。
「松坂を気にするよりも、周りについていくのに必死でした。プロの世界が厳しすぎて2、3年でクビになるかなと思っていました。高校から大学に進学したとき、レベルが5倍違うと思いましたが、大学からプロに入った時も5倍違いました」
独立リーグ新潟で感じた若い選手たちの思い「僕が(NPBに)戻るよりも…」
それでも、1年目から46試合に登板し、10年には自己最多となる56試合に登板。リリーフとして活躍した。その後、13年に横浜DeNAにトレードで移籍したが、16年には1軍での登板が6試合に留まり、オフに戦力外通告を受けた。トライアウトに参加したものの、NPBの球団から声がかかることはなく、BCリーグの新潟に入団した。
「プロに入ってからは、どうやったらバッターを抑えられるかだけを考えていました。先輩に質問しても、聞きまくってやっと1つ2つ教えてもらえるくらい。だから、見て盗んでいましたね。戦力外になりましたが、まだ肩も肘も痛くなくて『まだできるな、どこかあればいいな』と思っていたので、新潟に行きました」
新潟には、野球に対して一生懸命で、厳しい環境の中でNPBを目指している選手がたくさんいた。それまでは後輩の成績が良くなってしまったら自分の居場所がなくなるため、後輩の指導をすることはなかったが、新潟では初めて後輩に技術を教えようと思った。
「オフの間は地元のスポンサーでアルバイトをしながら、NPBに入ることだけを目指してみんな頑張っていました。その姿を見ていたら、僕が戻るよりも若い子たちに行ってほしいと思うようになりました。それからは、それまではあまり言えませんでしたが、『ここをこうやったらよくなるよ』と伝えるようになりました」
初めて肩が痛くなったことに加え、「NPBでプレーしたい」という若い選手たちの強い気持ちに勝つことができず、1年で引退を決断。昨年は解説者を務め、今年からライオンズアカデミーのコーチとして新たなチャレンジが始まった。始まったばかりの約2か月のアカデミーコーチの活動を経て「自分の頭で考えたことが言葉になって子供たちに伝わることが嬉しい」と笑顔を見せる。
夢は、子供たちに目標に最短でたどり着くために上達してもらうこと。その方法をどうやったら伝えられるか、勉強の日々を送っている。
(篠崎有理枝 / Yurie Shinozaki)
記事提供: