門田博光さんが語っていた南海の大阪球場最終戦「泣いてしまった。でも、男のいい涙」…74歳で急死

スポーツ報知

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2023.1.24(火) 19:40

2016年にインタビューに応じた門田博光さん

 プロ野球歴代3位の通算567本塁打を記録し、南海、オリックスなどで活躍した門田博光(かどた・ひろみつ)氏が24日、死去したことが分かった。74歳だった。40歳で44本塁打のプロ野球記録をマークした左の大砲。44歳まで現役を続けて通算2566安打は歴代4位、本塁打王3度、打点王2度の輝かしい記録を残した。2016年にスポーツ報知の取材に応じ、南海時代の1988年10月の大阪球場ラストゲームを語った記事を紹介します。

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 大阪球場の最終戦は、球場外まで南海ファンであふれた。88年10月15日の近鉄戦は無料開放され、超満員の3万2000人。客席が足らず、階段まで人で埋め尽くされた。試合後のセレモニーでは、杉浦監督、選手らがマウンド付近に整列し、哀愁漂うトランペットが球団歌を独奏。三塁側の左端に立っていた門田は涙が止まらなかった。「泣いてしまった。でも、男のいい涙。今は訳の分からん涙を流すやつが多すぎる」。腹をくくった。

 試合後のロッカールームで談笑するナインの心は、新天地にあった。バブル景気の勢いに乗るダイエーが親会社となり、博多での好待遇が約束されていた。門田は無言で帰り支度を済ませ、長期の密着取材を続けていたテレビクルーを「ついてくるな」と制し、タクシーに乗り込んだ。向かった先は、大阪・高石市内の故・川勝オーナーの自宅。仏壇に手を合わせ「移籍します」と胸の内を伝えた。

 残り2試合。去就を取り沙汰するマスコミの取材攻勢の中、本塁打を打てる精神状態ではなかった。シーズン最終戦は10月20日、川崎球場でのロッテ戦。東京に向かう新幹線の中では、阪急身売りの電撃ニュースも知った。仰木監督が率いた近鉄が、伝説の「10・19」で散った翌日の舞台。観客わずか8000人の前で、南海ホークスが50年の歴史を閉じた。門田はプロ19年目で初の全試合出場を果たし、打率3割1分1厘、44本塁打、125打点、100四死球。本塁打、打点の2冠に輝いた。

 例年、シーズン終了と同時に北海道などへ一人旅に出るが、この年は無理だった。10月29日、史上最年長でMVPに選ばれた。去就は11月9日、熱心に誘ってくれた上田監督率いるオリックスへのトレードが決まった。68年、阪急のドラフト12位指名を入団拒否してから20年遅れの入団。当時のドラフト1位・山田、同7位・福本はこの年限りで引退していた。

 移籍1年目は1厘差で優勝を逃したが、33本塁打。ブーマーとのハイタッチで古傷の右肩を脱臼するアクシデントがあったが、外野も50試合以上守った。「南海で打てたのは、DH専門、優勝争いのプレッシャーと無縁だったから」と皮肉る声に意地を見せた。42歳の90年も31本塁打を放った。

 長男が高校を卒業し、慕っていた上田監督も退任したことから、91年に自由契約の身でホークスへ復帰。本拠地・平和台球場の粗悪な人工芝で何度も下半身を故障し、2年間で本塁打は25本。44歳でユニホームを脱いだ。最後の打席は、野茂のストレートに3球三振だった。引退セレモニーは柄にもないと断った。

 群れず、こびずの世渡り下手。引退後、NPBの球団から指導者の声はかからなかった。「理論はたくさん持ってる。自信はあった。だけど、この健康状態で終わった」。好きな言葉は、織田信長が本能寺の変で残した「是非に及ばず」。その言葉が意味するように、野球人生の良しあしを「今さら考えることも、後悔もしていない」という。

 数字の壁を登り続けるイチローに共感し、夢だった50歳までのプレーをひそかに託している。プロ野球中継にかぶりつくのは大谷の登板時だけ。「どうやってタイミング取ったら165キロの球を打てるか、考えてるんや」。そう語る目に光が宿った。(島尾 浩一郎)=敬称略=

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