投手では昭和の時代に活躍したミケンズが最多勝
すでに1200人になろうとしているNPBの外国人選手。球史に残る選手も数多く出ている。今はなき近鉄の外国人選手も振り返っておこう。
○近鉄の外国人選手、安打数10傑。()は実働期間
1ローズ 1187安打(1996-2003)
2ブライアント 778安打(1988-1995)
3ブルーム 579安打(1960-1964)
4デービス 564安打(1984-1988)
5クラーク 555安打(1997-2000)
6ジョーンズ 327安打(1974-1977)
7ボレス 307安打(1966-1968)
8アーノルド 288安打(1978-1980)
9トレーバー 282安打(1990-1991)
10マニエル 257安打(1979-1980)
○本塁打数5傑
1ローズ 288本塁打(1996-2003)
2ブライアント 259本塁打(1988-1995)
3デービス 117本塁打(1984-1988)
4ジョーンズ 114本塁打(1974-1977)
5クラーク 93本塁打(1997-2000)
○勝利数10傑
1ミケンズ 45勝(1959-1963)
2J・パウエル 43勝(2001-2004)
3マットソン 14勝(1998-1999)
3バーグマン 14勝(2001-2002)
3バーン 14勝(2003-2004)
6アキーノ 11勝(1996)
7カラスコ 8勝(2004)
8レフトウィッチ 7勝(1998-1999)
8エルビラ 7勝(2000-2001)
10カスパラビッチ 6勝(1953-1954)
○セーブ数2傑
1カラスコ 5セーブ(2004)
2D・パウエル 3セーブ(1995)
※近鉄でセーブを記録した外国人投手は2名のみ。
1950年に近鉄パールズとして創設、1959年に近鉄バファロー、1962年に近鉄バファローズ、1999年に大阪近鉄バファローズとなり、2004年限りで球界再編によりオリックスと合併し消滅した。
パ・リーグの弱小球団として長く低迷したが、外国人選手の獲得は早く、1952年にはハワイ出身の日系2世の甲斐友治が入団。翌53年にはハワイのマイナーチームから投手のカスパラビッチと日系2世の渡辺満のバッテリーがそろって入団した。
マネー、カンセコ兄などビッグネームも在籍したが…
近鉄には話題性の多い外国人が数多く入団している。
1969年のジム・ジェンタイル(ジムタイル)は、5月18日の阪急戦でソロホームランを打つも一塁に向かうまでに左足肉離れで走れなくなり、代走を送られた。本塁打での代走は史上初。この年のジムタイルは8本塁打だが7得点だった。
近鉄外国人の最多勝投手、グレン・ミケンズは2桁勝利が2度、エース格だったが1963年8月21日の近鉄戦で、NPB史上初の1球勝利を挙げている。
東京ヤクルトから1979年にやってきたチャーリー・マニエルは本塁打を量産していたが、6月9日の千葉ロッテ戦で死球を受け顎を骨折。復帰後はアメフトのようなフェイスガード付きのヘルメットで打席に立つ。在籍した2年間はともに本塁打王を獲得。
マニエルはその後指導者となり。全盛期のフィリーズを率いる名将となる。
1984年のドン・マネーはMLB通算1623安打の一流打者、5月6日までに8本塁打を打ったが、日本の環境になじめず、わずか29試合で帰国した。
近鉄外国人の通算本塁打2位のラルフ・ブライアントは、中日では2軍暮らしだったが1988年6月下旬に近鉄にトレードされると残りの74試合で34本塁打。その後もホームランバッターとして活躍したが三振数もすさまじく、1993年にはNPB記録の204三振を喫した。
1991年にはアスレチックスで2度の本塁打王を取ったホセ・カンセコの双子の兄弟のオジー・カンセコが入団。大いに期待されたが、似ていたのは顔だけで、打撃はさっぱり。2軍では8本塁打したものの1軍出場はなし。シーズン途中に退団した。
近鉄最強の外国人は、タフィ・ローズだ。1996年に入団し、本塁打王3度、打点王2度、2001年には王貞治に並ぶ55本塁打のNPBシーズン記録(当時)をマーク。しかし財政難にあった近鉄は高騰するローズの年俸を負担できず、51本塁打で3度目の本塁打王を取った2003年オフに退団が決まる。ローズは巨人に移籍。翌2004年が近鉄球団そのものの最終年度となってしまった。
近鉄が消滅して14年。今では近鉄でプレーしたことのある現役選手は、巨人への入団が決まった岩隈久志と東京ヤクルトの坂口智隆、近藤一樹の3人だけとなった。
個性的だった近鉄の外国人選手たちも、日本野球史の1ページになろうとしている。
(広尾晃 / Koh Hiroo)
記事提供: