11月3日午後9時47分。三塁手の西田哲朗選手がゴロをさばく。一塁手の中村晃選手にボールが渡ると、福岡ソフトバンクの選手たちは全員コブシを突き上げてマウンド方向へ駆け寄った。
2年連続日本一の夢が、マツダスタジアムで結実した。
4勝1敗1分。ただ、その数字ほど福岡ソフトバンクが圧倒した感はない。広島も強かった。いきなりの引き分けスタートに始まり、第3戦で9対8の大乱打戦を演じたかと思えば、第5戦は今シリーズ2度目の延長で決着に。そして日本一が決まった第6戦は投手戦の展開となり2対0で福岡ソフトバンクが何とか相手を振りきった。
ほんのわずかな差が天地を分けた。紙一重のプレーが連続するのが野球である。その中でもスリル抜群なのが盗塁だ。
福岡ソフトバンクに新たな全国区のスターが誕生したシリーズになった。“甲斐キャノン"が連日メディアを賑わせた。
打率.143、打点0のMVPだ。捕手とはいえ、バットの評価が全く加味されずに最高殊勲選手に選出されたのは異例中の異例のこと。甲斐拓也選手の肩はそれほど突出していた。
レギュラーシーズンで盗塁阻止率.447を記録。パ・リーグどころか12球団で断トツの強肩で1つの盗塁も許さなかった。日本シリーズ開幕から4試合(4者)連続で盗塁を阻止。4者連続は1958年の藤尾茂(巨人)以来の快挙だった。そして迎えた第6戦の初回に二盗を試みた田中広輔選手を刺して60年ぶりに記録を塗り替えた。さらに2回にも安部友裕選手の二盗を阻止して6連続とさらに記録を伸ばした。
「そこは、ピッチャーの方も牽制やクイックを工夫してやってくれた結果だし、野手の方が素晴らしいタッチもしてくれた。自分1人では無理でした。ピッチャーにも野手にも感謝の気持ちでいっぱいです」
酸いも甘いも味わった因縁の地での大活躍
甲斐にとってマツダスタジアムは思い出であり、因縁の地だった。
まだ「拓也」の登録名でプレーをしていた2014年6月7日、この敵地での広島戦で悲願の一軍デビューを果たした。16対2と大量リードのために巡ってきた展開とはいえ、育成6位から這い上がってつかんだ夢舞台だ。アピールに必死だった。
しかし、投手との呼吸が合わないのかあっという間に走者をためて3ラン本塁打を許してしまう。もちろん焼け石に水の反撃で勝利のハイタッチの輪に加わることはできたのだが、甲斐選手に笑顔はなかった。ずっと大切にしている野球ノートを開くと、いつもの黒ペンを赤ペンに持ち替えて出来事や感じたことを書き記した。そして「悔しい」と大きな文字で締めくくった。
翌年のオープン戦でも失態をやらかした。2015年3月22日。両チーム無得点のまま試合が進み迎えた9回裏2死満塁、甲斐選手のまさかのパスボールでサヨナラ負けを喫した。公式戦ではない。だけど、甲斐選手は涙が止まらなかった。
2018年秋、そのマツダスタジアムでの頂上決戦で誰よりも輝いた男になった。
「このような素晴らしい賞を頂いたけど、高谷さんの力もあった。一番しんどい部分、最後を守ってくれたのは高谷さんです。僕はまだまだ力不足」
第6戦、甲斐選手は7回の打席で代打を送られ、日本一決定の瞬間にマスクを被ることはできなかった。
短期決戦での勝敗を分けた指揮官の積極的な采配
工藤公康監督は「パーソル CS パ」から通じて、この短期決戦では先手の采配を振るい、時には私情を投げ捨ててきた。松田宣浩選手をスタメンから外し、内川聖一選手にはバントを命じた。
「選手たちには苦しい思いをさせた。だけど、勝ちたいという思いは伝えてきた」
ナインはそれを理解した。松田選手はベンチで常に声を張り上げ、内川選手は試合後に「バントやっただけなのに(報道陣に)囲まれるなんて照れるね」と笑っていた。
先発投手を早い回で交代させた。第5戦ではリードした展開ながらエース格の千賀滉大投手を4.2回でマウンドから降ろした。
それができたのも充実した第2先発を整備したからだ。武田翔太投手、石川柊太投手、大竹耕太郎投手といった、レギュラーシーズンでは先発ローテーションを担った投手たちをブルペンに控えさせた。
「ピッチャーは第2先発を作った方がいいと、コーチたちと毎日ミーティングを重ねて話し合いました。日本一という結果につながったことがうれしいです」
平成の初めの頃、プロ野球は先発完投型が主流だった。1990年代終わりに「勝利の方程式」が定着し始め、今ではいかに優秀なブルペン陣を整備できるかが王者への近道となった。
ロングリリーバーという存在。工藤監督は「短期決戦だったからできたこと」と話していたが、野球は常に進化をしていく。平成最後の日本シリーズは新時代のプロ野球へ、何かヒントを与える戦いになったのかもしれない。
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