甲子園での黒星に発奮し、高校を中退して野球に専念
10月26日に85歳で死去した森下正夫氏は、南海ホークスの黄金時代を支えたスター選手だった。そして、その野球人生は起伏に富んでいた。
1933年9月4日、福岡県八幡市(現北九州市)生まれ。金田正一、吉田義男と同学年。県立八幡高校時代は屈指の強打者として注目され、チームを1950年の選抜に初出場させた。準々決勝の韮山高校戦は9回まで5-2と勝っていたが、遊撃を守っていた森下が9回裏満塁のピンチでバックホームを大悪投し、サヨナラ負けを喫した。雨天のぬかるみの中での試合だったが、森下はグランドで号泣したという。この悔しさもあって、翌年、高校を中退して南海に入団した。
当時の南海は、若手選手を南海電鉄グループの南海土建の社員という形で雇用していた。森下らのいた南海土建は都市対抗野球で準優勝。しかし、実質的なプロチームということで社会人野球協会からクレームが付き、南海土建は解散となった。
森下は、1952年には控え遊撃手として1軍の試合に出場。終戦後の南海は、木塚忠助、蔭山和夫、兼任監督の山本一人(鶴岡一人)、飯田徳治ら駿足好打の野手による「百万ドルの内野陣」で売り出していたが、ライバルの西鉄ライオンズが中西太、豊田泰光らを中心とした大型打線を組んだのに対抗するため、チームの若返りを図った。
森下はこのチーム方針によって、岡本伊三美、野村克也、広瀬淑功らとともにレギュラーに抜擢された。当初は遊撃手だったが、1954年に二塁にコンバートされ全試合出場してベストナイン、さらに1955年に三塁にコンバートされ59盗塁で盗塁王。全盛期の南海ホークスの切り込み隊長として長く活躍した。
怪我が多く、験直しに登録名を2度変更
アグレッシブな守備、走塁で知られたが、それだけに怪我も多く、アキレス腱を3度も断裂。しかし、その都度、奇跡的な復活を見せた。
鶴岡一人監督の回顧録には、アキレス腱を断裂した森下が、夫人の肩につかまりながら砂浜を歩いてリハビリをしていた、と書かれている。鶴岡監督は、森下のひたむきな姿勢に光明を見出したという。森下は名前を正弘(本名)、正夫、整鎮(のぶやす)と2回改めている。これも怪我、故障の験直しだったという。
鶴岡といえば「グラウンドにはゼニが落ちている」という言葉が有名だが、森下はこの言葉を肝に銘じて、どん欲に試合に出続けた。
15年間の現役生活で、1573試合4642打数1188安打50本塁打453打点315盗塁、打率.256を記録。盗塁王1回、ベストナイン2回、オールスター出場4回の功績を誇る。
引退後は中日、大洋、南海などでコーチを歴任。その後は鶴岡が創設した少年硬式野球のボーイズリーグの指導に当たった。
10月15日に逝去したスタンカ氏に次いで、南海ホークス全盛期を知る野球人がまた世を去った。
(広尾晃 / Koh Hiroo)
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