平成生まれに伝えたい。昭和の最後に生まれた伝説の戦い「10.19」とは?

パ・リーグ インサイト 望月遼太

2018.10.19(金) 09:35

インタビューに応える高澤氏。当時、選手としてキャリアハイの成績を残した【写真:PLM】
インタビューに応える高澤氏。当時、選手としてキャリアハイの成績を残した【写真:PLM】

 1988年10月19日、川崎球場で行われたロッテオリオンズと近鉄バファローズのダブルヘッダーは、30年が経った今でも語り草だ。リーグ優勝に向けて、近鉄はシーズン最後の2試合で引き分けさえも許されず2連勝が必要な状況に迫られた。平成最後の今、「10.19(じってんいちきゅう もしくは じゅってんいちきゅう)」と呼ばれる至極のドラマを振り返る。

 1987年のパ・リーグで最下位に終わっていた近鉄は、オフにヘッドコーチを務めていた仰木彬を監督に昇格させる。仰木にとっては監督初挑戦となるシーズンだったが、監督通算988勝を記録することになる後の名将は早くもその手腕を発揮してみせる。

 開幕8試合で7勝1敗という見事なロケットスタートを決め、その後もリーグ3連覇中と黄金期の真っただ中にあった西武とリーグ首位を争う。しかし、6月7日に好調だったチームへ激震が走る。

好調だったチームに突然のアクシデント

 実働5年間、461試合の出場で通算打率.331、117本塁打、322打点という素晴らしい成績を残し、確実性と長打力を兼ね備えた4番として活躍していたリチャー
ド・デービスが、大麻の不法所持で逮捕されるというまさかの事態が知らされたのだ。

 突如として主砲を失った近鉄は、代役探しに奔走することに。そんな中で白羽の矢が立てられたのが、この年から中日に所属していた新外国人のラルフ・ブライアントだった。

 当時の制度では一軍に登録できる外国籍選手の数が最大でも2名までとなっており、中日は同年の優勝にも貢献した郭源治とゲーリー・レーシッチという優秀な投打の助っ人を擁していた。そのため、ブライアントは「第3の外国人」という扱いにとどまっており、一軍での出場機会は得られないままだった。

 仮にこのままの状況が続いていれば、「在籍1年、一軍出場なし」という記録だけを残して日本を去っていた可能性も低くはなかったブライアントだが、近鉄への移籍が本人にとっても、そしてチームにとっても大きな転換点となる。

 6月28日に金銭トレードで移籍が成立すると、ブライアントは近鉄での74試合で34本塁打と驚異的なペースで本塁打を量産し、秘められていたその実力を誇示。まさに「救世主」というべき大活躍を見せ、デービスの穴を埋めてみせた。

新助っ人の加入によりチームは…

 デービスが逮捕された時点では5ゲーム差をつけられていたチームも、王者西武を相手にシーズン終盤まで食い下がっていく。9月16日からの8連勝で一気にゲーム差を詰め、10月4日にはついに首位浮上を果たして「優勝」の2文字がはっきりと視界に入るところまで来た。

 だが、その後は再び西武に首位を明け渡し、近鉄が優勝を果たすためには最後の対ロッテ3連戦での全勝が必須、1つの引き分けすら許されないという難しい状況に置かれることに。3連戦を迎える前に西武は全日程を終了しており、ペナントの行方は文字通り近鉄ナインの手に委ねられる形となっていた。

 近鉄が前日に行われたロッテ戦で12対2の大勝を飾ったことで、10月19日に行われるダブルヘッダーは近鉄が連勝すれば近鉄の優勝、どちらか1試合でも引き分け以下に終われば西武の優勝という極限の状態で行われることに。シーズンの全てが懸かった大一番は、あまりにも濃密で、あまりにも残酷な…まさに、プロ野球史上に残る死闘となった。 

伝説の幕開け。第1戦の展開は

 第1戦では初回に愛甲猛の2ランが飛び出し、近鉄に対して8連敗中だったロッテが優位に試合を進めていく。近鉄も5回に鈴木貴久のソロで1点を返したものの、ロッテは7回に1点を追加して再び2点差とする。

 近鉄は8回を迎えた時点で2点のビハインド。当時は「ダブルヘッダーの第1試合では延長が行われない」という規定が設けられていたため、勝ち越せなければV逸が決定する。近鉄にとってはまさに土壇場というべき状況だった。

 しかし、ここから猛牛打線がこのシーズンの集大成ともいえる粘りを見せる。8回に1死1,2塁から村上隆行が2点適時二塁打を放って3対3の同点に追いつくと、9回にも1死2塁と得点のチャンスを作る。ここで鈴木がライト前ヒットを放つが、勝ち越しを狙った2塁走者は三本間で走塁死。9回2死2塁、あとアウト1つで優勝の可能性が完全消滅する状況だった。

 ここで、仰木監督は近鉄一筋17年目の大ベテラン、梨田昌孝を代打に送り込む。リーグを代表する名捕手として鳴らした梨田も年齢からくる衰えには勝てず、35歳を迎えたこのシーズン限りでの現役引退を決めていた。

 後に近鉄バファローズ最後の監督となる男がロッテのリリーフエース、牛島和彦から放った執念の一打は、センター前にポトリと落ちる起死回生の勝ち越し適時打に。生還した2塁走者の鈴木はコーチの中西太と抱き合い、大男2人は感極まってグラウンドを転がり回りながら喜び合った。

 この試合で初めてリードを奪った近鉄は、9回裏の途中から抑えの吉井理人に替えて、エースの阿波野秀幸をマウンドに送り込む。2日前の阪急戦で8回2失点完投の熱投を見せていた阿波野は疲れもあってか2死満塁の大ピンチを招いたものの、ここで打席に入った森田芳彦を三振に斬って取り、虎の子の1点を守り抜いてチームの希望をつないだ。

23分後に行われた第2戦は

 わずか23分のインターバルを経て迎えた第2戦、ロッテはビル・マドロックのソロでまたしても先手を取る。しかし、近鉄は6回にベン・オグリビーの適時打で同点に追いつき、7回には梨田と同様にこの年限りでユニフォームを脱ぐ吹石徳一と、シーズン打率1割台の伏兵・真喜志康永にそれぞれソロ本塁打が飛び出して、一気に2点のリードを奪った。

 だが、7回裏には岡部明一のソロと西村徳文の適時打でロッテが2点を奪い、試合は3対3の同点となる。追いつかれた近鉄は直後の8回にブライアントがソロ本塁打をスタンドに叩き込んで再び1点のリードを奪うと、8回裏には第1戦に続いて阿波野をリリーフに送り込み、完全に大黒柱にシーズンの命運を託すという形を取った。

 この1点をなんとしても守り抜きたかった近鉄だったが、阿波野がロッテの4番・高沢秀昭に痛恨のソロ本塁打を浴びて試合は再び振り出しに。この高沢の起死回生の本塁打と、痛恨の失点を喫してショックを隠せない阿波野の姿の対比は、今なお多くのファンの脳裏に刻み込まれている。

 さらには9回裏、「10.19」を象徴するシーンが訪れた。ロッテが無死一、二塁としたところで阿波野が二塁へけん制。ボールを受けた二塁手の大石第二朗が二塁走者にグラブで触れると、アウトが宣告された。この判定にロッテの有藤通世監督が抗議する。

 その時点で試合時間は3時間30分を経過していた。当時は試合開始から4時間が経過した場合、そのイニングが終了した時点で試合を打ち切る規定があり、このまま引き分けで試合が終われば近鉄の悲願は露と消える。10分近い相手監督の抗議に、球場内が騒然としたムードに包まれた。

 試合は延長10回に突入し、この回の近鉄は先頭打者が相手のエラーで出塁しながらも無得点に終わる。10回裏を迎えた時点で試合時間は3時間57分。近鉄ナインはわずかな可能性にかけて10回裏の守備に就くが、無情にもイニング途中に試合時間が4時間を超過した。この瞬間、西武のリーグ4連覇と、近鉄のV逸が確定することになった。

 足掛け2試合、7時間33分にわたって演じられた死闘には、シーズンの行方を左右する試合に独特の熱量と、様々な勝負の綾が含まれていた。前年は最下位に沈んでいた近鉄が、紆余曲折を経て絶対王者・西武を追い詰めたシーズン全体の展開も掛け合わされてドラマ性が増長されている。平成の次の元号では、どのような伝説が球史に刻まれるだろうか。
(文中敬称略)

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パ・リーグ インサイト 望月遼太

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