9月9日に背番号「9」が躍動した。メットライフドームでの埼玉西武戦。2回にまわってきた1打席目に中前打を放つと4回の第2打席。打球は大きな弧を描き、マリーンズファンの待つライトスタンドへと消えていった。
「完ぺきではなかった。バットのちょっと先。ファウルか、外野の頭を越えるかなという感じだったね」
本人の手応えとは違い、ベンチもスタンドも打った瞬間に確信できる一発だった。福浦和也選手が本塁打を放ったのは2015年4月9日のオリックス戦(京セラドーム大阪)にて東明大貫投手から1試合2発を放って以来。実に3年半ぶりのアーチ。久々の感触を噛みしめるように悠然とダイヤモンドを1周した。
1打席目は初球のスライダーを見逃し、ストライク。2球もスライダーを空振り。そして3球目。再びスライダーにバットを合わせると打球は中前に飛んで行った。2打席目。初球はシンカー系のボール球。この直後、狙いを定めた。
「1打席目が3球スライダー。2打席目は初球がシンカー系の球。4球連続で変化球だったから、次こそはストレートと狙いを定めていた。うまくバットにボールを乗せることができたね」
25年の歳月で研ぎ澄ませてきた読み通りだった。投じられたインコースへの143キロのストレートにバットを合わせ、ボールを乗せた。ライトポール間際にスッと吸い込まれていく芸術的なアーチだった。
22歳差対決に勝利するも福浦選手は…
42歳8カ月の福浦選手が対戦をした相手先発は20歳4カ月の今井達也投手。実に年の差22歳だった。周囲は、この年の差対決を好奇の目で見るが本人はその質問を静かに遮る。
「相手はプロ。こちらもプロ。ただそれだけ。年の差なんて全く関係ない。いい球を投げていた。だからこっちもなんとか打ち返そうと必死。年の差なんて考えることもできなかったよ」
ちなみにではあるが今井投手が生まれた1998年5月9日は千葉でロッテ対日本ハム5回戦が行われている。14時試合開始のデーゲーム。福浦選手は3番ファーストでスタメン出場。4打数1安打。5回にはファイターズ先発の関根裕之氏から左安打を記録した。
一軍で出場するようになって2年目。この年は近藤昭仁監督に大抜擢される形で129試合に出場。打率.284、3本塁打、57打点とプロで活躍するキッカケをつかんだ一年であった。
1998年にはマリーンズファンにとって忘れられない出来事も…
なによりもこのシーズンは福浦選手にとっても、マリーンズファンにとっても忘れられない出来事があった年だ。18連敗である。千葉ロッテは日本プロ野球史上もっとも長い連敗を記録した。
「忘れられない。いろいろなことがあったよ。勝ち越しても勝ち越しても逆転されたり。球場でおはらいをしたりとかね」
その中でも一番、記憶に残っているのは連敗中に声援を送り続けてくれたファンのことだ。本拠地での試合に敗れ、肩を落とし帰宅しようと選手駐車場に向かうと外にはファンがたくさん待っていた。ファンは選手たちを励まそうと帰るのを待っていたのだ。そして歌ってくれた。うつむきながら球場を出る選手たちに歌で励ました。
用意されていた垂れ幕には「マリーンズ、オレたちがついているぜ」と書かれていた。福浦選手もその歌に勇気づけられた選手の一人だった。その時の光景は42歳になった今も決して色あせることはなく鮮明に覚えている。
「あの時、駐車場で聞いたファンの歌声は今もしっかりと覚えている。あんなに負け続けていたのに誇りに思っていると歌ってくれた。そんなファンの皆様に勝ってお返しをしたいと強く思った。自分にとってもマリーンズにとっても忘れられない年」
だからこそ、その後の背番号「9」は勝利にこだわってきた。自分の成績よりもチームの勝利を喜び、どこまでもストイックに勝ちを追い求めてきた。98年。それはここまで積み重ねてきたキャリアの中でもターニングポイントとなる年だった。
月日は流れ2018年。千葉マリンスタジアムはZOZOマリンスタジアムへと名を変えた。そしてこの本拠地で9月15日より8連戦が組まれている。通算2000安打の偉業達成まであと4本。あの時、歌を歌って励ましてくれたファンがいて今の自分がいる。そのファンへの最大の恩返しは本拠地での偉業達成。
「気力で頑張るよ」。福浦は力強く言った。マリーンズファンはいつも応援し続けてくれた。誇りに思い続けてくれた。その想いに応えるのがプロ。だから決める。絶対に決める。偉業達成を地元で決める。
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