NPBで連続試合出場記録を1000試合まで伸ばした選手は8人
NPBではこれまで連続試合出場記録を1000試合まで伸ばした選手は8人いる。いずれも球史に残る名選手だが、記録が途切れるときにはさまざまなドラマがあった。
日本のプロ野球で連続試合出場記録が初めて注目されたのは、初代ミスター・タイガース、藤村冨美男だった。
プロ野球草創期から阪神の中心選手だった藤村は、戦後、プロ野球が再開された1946年8月30日から連続試合出場をスタートさせ、1954年まで続けたが7月25日の大阪スタジアムでの中日戦で、判定をめぐって兼任助監督だった藤村が主審を小突いたのがきっかけとなって、没収試合に。藤村は出場停止処分となり、記録は「1014」で途切れた。
この事実を「記録の神様」山内以九士がメディアに発表し、日本のファンは初めて連続試合出場記録に注目するようになった。
南海、国鉄で好守好打の一塁手として活躍した飯田徳治は、この記録を破ることに執念を燃やした。藤村の記録を2年遅れで追いかけていた飯田は南海時代の1954年6月15日大阪球場の西鉄戦で手首に死球を受けるが、代走で出場して記録を伸ばした(現在の公認野球規則では代走だけでの試合出場は、出場数には加算されるものの連続試合出場にはカウントされないことになっている)。しかし1958年5月24日、甲子園での阪神戦で走塁中にアキレス腱を断裂して連続試合出場は「1246」で途切れた。
衣笠祥雄は、飯田徳治の記録を1980年8月2日に22年ぶりに更新、1987年6月13日にはMLBのルー・ゲーリッグの連続試合出場記録を抜く「2131」に到達。国民栄誉賞を受賞する。以後も出場し続け、この年のシーズン終了時に「2215」まで伸ばし、そのまま引退した。
この衣笠祥雄の記録が現在までNPB記録となっているが、それ以降、5人の選手が連続試合出場記録を1000試合以上積み上げた。
ヤクルトの主軸打者だった広沢克己は、1986年10月12日から連続試合出場をスタートさせ、1995年にFAで巨人に移籍してからも記録を続けたが、1996年のオープン戦で死球を受けて骨折し、開幕戦を欠場。記録は95年10月8日までの「1180」で途切れた。
金本は意外な形で記録ストップ、現役最多は西武秋山の「589」
松井秀喜はプロ1年目の1993年8月22日から連続試合出場をスタート。大きな怪我、故障もなく記録は「1250」まで伸びたが、MLBに移籍したため途切れた。ヤンキースのジョー・トーリ監督は日米通算での連続出場記録に理解を示し、松井を使い続けたが、2006年5月11日のレッドソックス戦で左翼守備の際に左手首を骨折。日米通算での連続試合出場記録は「1768」で途切れた。
松井稼頭央は西武時代の1995年7月22日に連続試合出場をスタート。2003年修了時までに「1143」まで伸ばす。彼もMLBに挑戦。2004年、移籍したメッツでは開幕戦で初打席初球を本塁打するなど派手なデビュー。松井秀喜に対して「リトル松井」と呼ばれたが、以後は打撃不振に陥り、6月25日のレッズ戦を欠場。日米通算での連続試合出場記録は「1213」で終わった。
金本知憲は広島時代の1998年8月22日から記録をスタートさせ、2003年にFA移籍した阪神でも記録を伸ばす。2007年には、歴代2位だった松井秀喜の記録を抜き史上2位となる。しかし2010年以降、打撃不振が続き、守備でも厳しい状態となる。2011年4月14日のナゴヤドームの中日戦、8回表二死一塁で金本は救援投手久保田智之の代打として打席に立った。このとき一塁走者の俊介が盗塁に失敗。金本は打席を完了することなくチェンジとなった。その裏、真弓明信監督は金本に代えて、投手の小林宏をマウンドに上げた。金本に「試合出場1」はつくが、公認野球規則では打席を完了していない場合は、連続試合出場は継続とみなされない。こういう形で金本の記録は「1766」で途切れた。
鳥谷敬は打率.149という低打率に苦しみ、交流戦初日の5月29日の試合に出場せず、連続試合出場記録は史上2位の「1939」で途切れた。
今季は、鳥谷敬に次ぐ現役2位の連続試合出場記録を持っていた広島の丸佳浩が、4月28日の阪神戦で負傷、右太もも裏の筋挫傷のため出場選手登録抹消となり記録を「700」でストップさせた。これで現役最多は、西武、秋山翔吾の「589」となった。
4月23日の衣笠祥雄氏の急逝もあった。今季は、連続試合出場の歴史上、特筆すべき年になったと言えるだろう。
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