BC栃木入りした吉川光夫投手、単身赴任の荷物に入っていた「ノート」
今季、ルートインBCリーグの栃木ゴールデンブレーブスに新加入した吉川光夫投手は、2012年に前年未勝利から14勝、リーグトップの防御率1.71を残してパ・リーグのMVPまで上り詰めた。突然のようにも見える快進撃を支えていたのが、巨人と阪神の両球団でエースとして投げた故・小林繁氏が遺した「ノート」の存在だ。栃木では投手兼任コーチとなる吉川にとって今後、指導のヒントになるかもしれないバイブルには、一体何が書いてあったのだろうか。
吉川は9日のシーズン開幕に備え、家族と離れて栃木に居を移している。引っ越しの時「持ってきた荷物に、たまたま入ってたんですよ……」と久々に触れたのが「小林ノート」だ。小林氏は2009年に北海道日本ハム2軍投手コーチに就任。千葉県鎌ケ谷市の球団寮に住み込み、自身の野球論を連日のミーティングで若い投手に伝えた。選手は小林氏の話を自筆でノートにとり、消化していった。吉川はもともと、自分の野球ノートをつけていたこともあり、それが苦にならなかったという。ほぼ1冊を使い切り、野球生活の指針となる宝物ができあがった。
そこには、何が書いてあるのだろうか。吉川の言葉を借りれば「もう、投手に関する全てです」となる。投球フォームのこと、カウント別の打者心理、打者のタイプや身体的特徴など。それを自分の手で書いていったのだから、頭に刻まれている。
2007年、高卒1年目で4勝を挙げ、日本シリーズでも投げた。その後、迷路に迷い込んだかのように勝てなくなってしまった吉川にとっては、ここで得たヒントがひと筋の光となった。2012年に突然開花したかのように思われているが、実際には違う。2011年、1軍では0勝5敗に終わったものの、2軍では17試合で9勝3敗、防御率1.64とタイトルを総なめにし、手ごたえをつかんでいた。そのきっかけがこのノートにあった。
吉川を勝てる投手にした「ポイントを締める」というアドバイス
左腕から150キロ近いボールを投げられる吉川の、大成を阻んでいたのは制球難だった。それはフォームの“再現性”が低く、いつも同じフォームで投げられないことが原因。そこで小林氏の「ポイントを締める」という言葉がヒントとなった。自分の投球フォームにチェックポイントをたくさん作ったところで、できないだけ。1つでいいから、とにかくきちんとできるようにしようという趣旨だった。吉川の場合のそれは「手の甲」だ。フォームの中で向きを意識することで、体の近くで強く、同じように腕を振れるようになった。
4年越しの12連敗を喫していた投手が、一躍エースへ。ダルビッシュ有投手(現パドレス)が抜けた投手陣を支えた。「2012年は投げていてリズムがあった。フォームに一定のリズムがあったと思うんです」。その後、肘や肩を痛めて再び苦しむことになるものの、忘れられらない感覚だ。
吉川はNPBへの復帰を目指して、栃木にやってきた。兼任コーチと言う肩書はあるものの、チームにはまず現役投手として期待されている。ただ、海外でのプレーも考えた中で栃木のオファーを選んだ裏には、将来的に指導者をやってみたいという理由もある。コーチとしては1年生、教え方は試行錯誤の日々だ。
「伝えるって本当に難しい。本当に伝わっているのかな? と思うこともありますし」
そんな時にも、小林ノートが助けになってくれるのかもしれない。「選手が情報過多になってしまうことには気を付けないといけませんけど、『俺が21、22歳の時に教えられたこと』として見せることもあるかもしれませんね」と考えている。さらにコーチとしては「選手の話を聞くのがスタートだと思うので、答えは与えるのではなく、出させます。考えさせるんです」というベースがある。これも小林コーチの話を、ノートに刻み付けながら考えた若き日の財産だ。
小林氏は、江川卓のトレード相手として一躍名を挙げた。長嶋巨人のエースとして活躍していたが1979年、ドラフト指名された阪神入団を拒んだ江川の“身代わり”としてライバル球団に移籍し、巨人相手に8連勝。シーズン22勝を挙げ意地を見せた名投手だ。引退後はテレビのキャスター業の後、近鉄で指導者に。北海道日本ハムでは2軍で1年間指導し、1軍昇格が決まっていた2010年の年明けに突然この世を去った。ひそかに受け継がれた野球論が、今度はNPBを目指す若い選手にヒントを与えるのかもしれない。
(羽鳥慶太 / Keita Hatori)
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