【日刊スポーツ×パ・リーグインサイト Vol.5】<閑話休題>70年前と現在の記事を見比べてみよう

パ・リーグ インサイト 吉田貴

2020.9.14(月) 18:00

(C)PLM
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 パ・リーグ創設70周年を記念してお送りする特別企画。日刊スポーツよりご提供いただいた紙面を参考に、全10回で当時のパ・リーグを振り返る。また、野球殿堂博物館の井上裕太学芸員より当時についての詳細な解説もいただいた。

 これまでは、今から70年前、1950年に発足したパシフィック・リーグ(太平洋野球連盟)の経緯、そしてその初年度の印象的な試合について取り上げてきた。第5回ではいったん閑話休題、1950年と2019年の記事の比較を通して、日刊スポーツの紙面に注目していきたい。

(C)日刊スポーツ
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一目でわかるのは写真の大きさ! 違いを生んだ最大の要因は

 まず目に飛び込んでくるのは、紙面における情報量の違いだ。1950年の記事では一面に数多くのスポーツに関する話題が扱われている。一方で、2019年の記事では北海道日本ハム・吉田輝星投手のプロ初先発初勝利が、躍動感あふれるカラー写真で伝えられている。

 こうした違いを生んだ要因の一つには、ページ数の違いがある。1950年の日刊スポーツは4ページ構成。それに対し、2019年は20ページ以上で構成されている場合が多い。そのため、記事内で吉田輝星投手が投じた球種の割合などを、グラフを用いて視覚的にも伝えることができている。

70年前の新聞記事からわかること

 1950年の紙面の左下で扱われている「日本復帰問題を上程」という記事に注目してほしい。記事内では、1952年に開催されるヘルシンキオリンピックにおいて、日本が参加国に復帰するかどうかについての議論が行われている。

 また、右上の記事ではアメリカから派遣された体操選手に関する話題が扱われている。先述したオリンピック復帰についての記事と合わせれば、当時の日本のスポーツが徐々に国際化を迎えていたのではないかと考えることもできる。このように、新聞紙面は当時の社会状況について観察する貴重な資料であると言えるだろう。

六大学野球が生んだ野球界のレジェンドたちの名前もズラリ

 複数の話題が扱われている1950年の紙面上でも、特に大きく扱われているのが右下の「大学野球」についての記事だ。井上さんによれば、当時の大学野球はプロ野球に匹敵、もしくはそれ以上の人気を誇っていたという。

「六大学は特に戦前などではものすごい人気を誇っていたので、戦後直後もその人気は続いていました。有名な選手も多数輩出しているので、紙面上ではそこに注目すると面白いですね」

 六大学野球で使用されている明治神宮野球場は大学野球の「聖地」ともいうべき場所だが、70年前はプロ野球の試合は開催されていなかった。紙面上からは、明治神宮野球場から誕生した当時のスター、そしてのちの野球界に多くの功績を残した方々を見つけ出すことができる。まずは、1950年の春から3連覇を成し遂げた早稲田大学のメンバーに注目したい。

 まずは2番・ライトで出場している荒川博選手だ。早稲田大学から毎日に進んだ後、引退後は巨人とヤクルトで指導者として活躍。特に巨人では、王貞治選手にその代名詞でもある「一本足打法」を指導したことでも有名だ。王選手は後に通算868本塁打の世界記録を樹立。荒川選手はその生みの親とも言える存在だろう。

 4番・ファーストで出場している石井藤吉郎選手は1995年に野球殿堂入りを果たしているレジェンド中のレジェンドだ。選手時代には通算114安打の連盟記録を樹立し、チームの4度のリーグ優勝に貢献、特に1950年には主将としてチームを春夏連覇に導いた。ただ、プロ野球には進まず、選んだのは社会人野球の世界だった。井上さんによれば、当時はプロ野球ではなく社会人野球を選択する有力選手も多かったという。

「大学が最高峰みたいな時代でもあったので、有力な選手でもアマチュアに進み、都市対抗野球で活躍する道を選ぶ場合もありましたね」

 入団した大昭和製紙でも主将としてチームをまとめて1953年の都市対抗野球大会優勝、1956年の世界選手権大会優勝にも貢献している。現役引退後は指導者としてもその手腕を発揮し、母校である水戸商業と早稲田大学、そして全日本の監督を歴任した。

 6番・ピッチャーの末吉俊信投手もリーグ通算83試合登板、44勝20敗を記録している花形選手。83試合登板は若林忠志に次ぐリーグ歴代2位、44勝は当時の最多記録で、現在は山中正竹、江川卓に次ぐリーグ歴代3位の大記録だ。上記のメンバーも加えて、まさにスター揃いのスタメンだったと言えるだろう。

 一方の法政大学でも7番・捕手として出場している根本陸夫選手は2001年に野球殿堂入りを果たしている。特に指導者、そしてフロントの責任者としての手腕は多くの野球ファンに知られている。4球団で監督を務めたあとには、西武とダイエーでフロント入りし、その幅広い人脈と行動力で、チームを黄金時代へと導いた。こうした活躍が70年後のプロ野球の礎となったことは言うまでもない。

 ここで扱った話題以外にも、二つの紙面には数多くの違いがあるはずだ。ぜひとも自身の目で当時のスポーツメディアを比較してもらいたい。第5回までは1950年シーズンの前半までの記事について取り上げた。第6回以降は、優勝チームと個人タイトルが決定するシーズン後半を中心に触れていく。

関連リンク

第1回「パシフィック・リーグの創設」
第2回「パシフィック・リーグ初めての公式戦」
第3回「パ・リーグ、今も破られない70年前の記録とは?」
第4回「パ・リーグ創設初年度に起きた『放棄試合』の全容」
第6回「70年前の『パ・リーグ初代王者』がついに決定」
第7回「2リーグ制初の日本シリーズはパ・リーグが制す!」
第8回「パ・リーグの初代タイトルホルダーたち」
第9回「パ・リーグ初代ベストナインたち」

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記事提供:

パ・リーグ インサイト 吉田貴

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