ルーキーイヤーの2008年に厚沢投手コーチから貰った言葉
プロ野球開幕を心待ちにしながら北海道日本ハムの取材ノートを整理していたら、思い出深い言葉を再発見した。「F取材ノート~心に残ったあの言葉」として改めて紹介したい。今回は、日本を代表するリリーバーである宮西尚生投手。
「結果的にあの1試合が分岐点になりましたね」
これは「鉄腕誕生秘話」というテーマで原稿を書くため、2017年8月に聞いた時の言葉だ。宮西が語る分岐点とは、ルーキーイヤーにまでさかのぼる。
2008年9月28日千葉ロッテ戦(札幌ドーム)。宮西は1-4で敗戦濃厚の9回2死から5番手投手としてマウンドに上がった。打者3人に投げてアウト1つを奪ったこの試合で、新人ながら50試合登板を達成した。
実は、宮西自身はこの登板に乗り気ではなかった。レギュラーシーズン142試合目、すでに心身ともに疲労困憊していた。取材ノートには「あの時はしんどくて。成績だって抹消されても良かったくらい。体力的にも精神的にもきつくて、投げたくないと言ったんです」と泣き言が並ぶ。49試合と50試合、この1試合の差が後にどれだけ大きな意味を持つのか、23歳の宮西には分からなかった。
もし50試合に届かなかったら?「俺の気持ちが切れて終わる」
半ば強引にマウンドに送り出したのは、厚沢和幸投手コーチだった。「この1試合は将来、絶対に財産になるから、投げた方がいい」と渋るルーキー左腕の背中を押した。
この厚沢投手コーチの一言がなければ、1年目は49試合に終わっていたかもしれない。元中日の岩瀬仁紀に次ぐ12年連続50試合以上登板がこんな紙一重の1試合から始まったというのは興味深い。
今では岩瀬が持つ15連続50試合以上登板の記録が、大きなモチベーションになっている。酷使してきた左肘はすでに2度手術。14年には左すねを疲労骨折しながら投げ続けたこともあった。疲労が蓄積すると肘に溜まった水を病院で抜いてもらいながら、首脳陣の期待に献身的に応え続ける。
手術明けながら55試合に登板して44ホールドポイント、防御率1.71の好成績で最優秀中継ぎ投手のタイトルを2年連続で獲得した昨季終盤。12年連続50試合登板を達成した後に取材したノートには「50試合登板があるから心が折れずに投げ続けられる」という言葉がある。
その直後に聞いてみた。もし50試合に届かなかったら? と。宮西は「俺の気持ちが切れて終わる」と豪快に笑った。冗談か本気か。いつもの軽口であってほしい。
新型コロナ感染拡大で今季の開幕日はまだ決まっておらず、試合数は例年より少なくなる。13年連続50試合登板のハードルは上がるが、何百回も修羅場をくぐり抜けてきた宮西なら意地でもやってくれそうな予感がしている。
(石川加奈子 / Kanako Ishikawa)
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