近鉄バファローズが消滅してから、15年の月日が流れた
今から15年前、ひとつの球団が55年の歴史に幕を下ろした。大阪近鉄バファローズ。「いてまえ打線」と呼ばれた強力な打撃陣を擁し、豪快な野球で多くのファンに愛されたチームだ。その球団史における最後の選手会長となったのが、1997年から2004年まで近鉄に在籍し、勝負強い打撃を武器に主力として活躍した礒部公一氏だ。
2019年11月26日に、礒部氏の全面協力のもとで『近鉄魂とはなんだったのか?最後の選手会長・礒部公一と探る(著・元永知宏氏)』と題した書籍が発売された。本書は、梨田昌孝氏、ラルフ・ブライアント氏、岩隈久志投手をはじめとした多くの近鉄バファローズ関係者への取材に基づき、その球団史と人々の想いを伝える内容となっている。
近鉄の球団史においても重要な役割を担った存在である礒部氏にとって、今回の書籍取材はどのようなものだったのか。球団消滅から15年が過ぎた今、自身の「近鉄人生」と、全ての野球ファンに伝えたいことについて、礒部氏に話を聞いた。
球団の熱意を感じた、ドラフト直後の入団交渉
礒部氏は西条農高、三菱重工広島で捕手として活躍し、1996年のドラフトではプロ入りが有力視される存在となっていた。当時、礒部氏が最初にスカウトから指名の挨拶を受けたのは、近鉄ではなく、オリックスだったという。
「その年の2位が谷(佳知)さんで、3位が僕の予定だったらしいのですが、谷さんとは仲が良かったですし、一緒にやれればいいなという感じで、『オリックスに行きます』と伝えていました」
しかし、同年のドラフトでは、オリックスよりもウェーバー順が上だった近鉄から3位指名を受ける。先述の理由でオリックス入りを志望していた礒部氏だったが、「ケガをしたらプロに入れるかどうかもわからなくなる状況ですから、気持ちの中では、指名されたところに行こうと思っていました」という。そんな中で、ドラフト直後に佐々木恭介監督(当時)が広島までヘリコプターを飛ばし、礒部氏に対して入団を直々に説得した。
「最初から(近鉄に)行こうとは思っていましたが、次の日にヘリコプターですぐ来てくれて、ありがたかったですね。前の年に(福留)孝介に断られた後でしたし、どうしても入団させなきゃ、という感じだったのかなと。それだけ必要としていただいているんだな、という気持ちは、十分に伝わりました」
コンバートを経て優勝に貢献し、“近鉄最後の選手会長”に
当時の近鉄の捕手陣は守備型の選手が多かったこともあり、礒部氏は“打てる捕手”としての期待を受けてチームに加わった。その打力を活かすため、入団当初は捕手と外野手を兼任し、時には試合途中に外野から捕手に回ってマスクを被るという、現在のプロ野球では考えられないような役割をこなしていた。
立場上、捕手のミーティングにも常に参加し続ける必要があり、「外野で守っている方が全然楽でした。キャッチャーは重要で、大変なポジションですから」と当時を振り返ったが、「社会人の時からやっていて、プロに入ってからもその流れでやらせてもらって。僕はもう、それに慣れっこでしたから。僕たちにとっては試合に出ることが一番だったので、どういう形であれ試合に出られて、僕の中ではよかったなと思います」と、難しい役割にも前向きに取り組んでいたという。
その後、2001年の開幕直前に外野手へ専念することに。この年は「6番ライトで出た開幕戦で逆転3ランを打って、外野手としてのいいスタートが切れた」という。その後、タフィー・ローズ氏と中村紀洋氏の後を打つ5番打者に定着。17本塁打、95打点、打率.320という好成績を記録してベストナインにも選出され、球団最後のリーグ優勝に大きく貢献した。
「逆転勝利もかなり多かったし、波に乗ったチームの中で、その波に乗らせてもらったという感じの1年でした。リーグ優勝もしましたし、(無安打に終わった)日本シリーズで逆シリーズ男にもなりましたし……何かと、印象深いシーズンでしたね」
その後、礒部氏は2003年にチームの選手会長に就任。2004年には球団合併阻止のために奔走したが、球団を存続させることはかなわず。結果的に、礒部氏は“近鉄最後の選手会長”となった。
「僕にとっても、すごく辛かったですけど……一番最後に選手会長としてそういう活動ができたことは、野球人・礒部公一をつくるうえでは、いい経験になったんじゃないかとは思います。ただ、今後、ああいうことはあってはならないと思いますし、勘弁してほしいですけどね。若い選手たちには、僕と同じような気持ちになってほしくはないですから」
まさにプロ。野球になれば一気にまとまる個性派集団
今回出版された書籍の前半部分では、“悲運の名将”と呼ばれた西本幸雄氏の談話やエピソードが多数紹介されている。“お荷物球団”と揶揄されるほどの弱小チームだった近鉄を熱心な指導で立て直し、1979年の球団史上初のリーグ優勝、そして翌年のリーグ2連覇へとチームを導いた、まさに近鉄の礎を築いた闘将だ。
礒部氏は西本氏の指導を直接受けたわけではないが、梨田昌孝氏や羽田耕一氏といった、西本氏の教え子だった近鉄のコーチの指導を通じて、その教えを学んだ。
「梨田さんもよく言われるのですが、仰木(彬)さんの時代も含めて、近鉄では西本さんの野球がずっと続いていました。自分がコーチになって指導する際にも、自分では気づかないうちに、そういった部分が少しずつ出ているのかなと、後から考えれば思うこともあります」と、その教えはさらに後の世代にも受け継がれているようだ。
西本氏が作った“強い近鉄”の潮流は、その後も球団の伝統となって確かに息づいていた。礒部氏が「僕にとっては最高の二塁手。最高の守備職人」と絶賛する盟友・水口栄二氏は、1991年に近鉄に入団。普段は選手個々がバラバラでも、いざ試合が始まるとひとつにまとまってプレーするところに感銘を受けたという。そういった姿勢は、礒部氏が入団した1997年になっても継続していた。
「もう、そのまま残っていましたよ。プライベートは全然バラバラでも、試合や練習の連携プレーではばっちりのタイミングでやれるんですよ。本当にプロというか、『あの人とあの人は仲が悪いのに、いざ野球となるとこんなに上手くできるんだ』と。プライベートが全く関係ないという話ではないですが、昔の西武もそうだったんじゃないですか? 強いチームって、こういうことなんだなとは思いましたね」
「いてまえ」の合言葉通り、豪快なエピソードの多かったチームだが……
捕手として個性の強い投手たちとコミュニケーションを取っていた礒部氏は、5度の最優秀救援に加え、1992年には抑えを務めながら最優秀防御率を獲得するという離れ業を演じた剛腕・赤堀元之氏の意外なエピソードも明かしてくれた。
「赤堀さんなんか、試合前にずっと漫画を読んでましたね。どんだけ漫画読むねんって(笑)。8回から9回が赤堀さんの仕事場なので、球場に入るのも遅かったりしました。仰木さんの時には現在のような、クローザーもホームゲームでは3時間半前くらいから練習という感覚は近鉄にはなかったと思うんですよね。やはり、試合でベストパフォーマンスを出すことが一番で、クローザーなら別に早く来なくても、ゆっくりその時間に合わせて来ればいいんじゃないかと。やっぱり、それも近鉄らしさですかね」
また、書籍の中では、金村義明氏の談話として、1988年と1989年の2度にわたるダブルヘッダーで日本中の注目を集めた名監督・仰木氏が、翌日のショートの先発を北海道遠征で訪れたサッポロビール園での一気飲みで決めたことがあるという、現在では到底考えられない驚きの逸話も紹介されている。
「『ショート、誰が行くねん』と。真喜志(康永)さんなんか、普段酒飲まないのに一生懸命飲んでたらしいですよ。普通、レギュラーを一気飲みの早さで決めますか? ある程度の立ち位置の選手だけでやるならいいんですけど、控えの控えみたいな登録メンバーで勝負するぐらいですからね。ありえないような話ですけど、仰木さんのやりそうなことだなあ、と。元々そういう、お酒を飲みながら何かするのが好きな方でしたから」
今回の書籍の中には、他にも、いかにも近鉄らしい、豪快かつ人情味のあるエピソードが多数収録されている。とはいえ、実際の近鉄というチームは、世間一般の豪快なイメージとは異なる一面も持っていたという。
「打ち勝つ野球が多くて豪快に見えるでしょうが、細かいサインプレーなどもしっかり入れながら、というチームでしたので、周囲が思うほど僕たちは『いてまえ』という感じではないんです。僕たちが入った時には分析担当のコーチの方もおられましたし、元々の豪快な野球に緻密さを足すことで強いチームを作っていこう、という、ちょうどそういった世代でした」
球界再編に揺れた2004年のことを知らない野球ファンに、礒部氏が伝えたいこと
15年という月日は長い。今や、近鉄に在籍経験のあるNPBの現役選手は、岩隈久志投手(巨人)、近藤一樹投手、坂口智隆選手(ともに東京ヤクルト)の3人を残すのみだ。
「年齢は年齢ですが、主軸で出られる選手3人なので、最後までもがいてほしい。(近鉄のことを)語れる人間がいなくなってしまうので。坂口と近藤は、僕たちと一緒に(一軍で)やってはいないんですが、クマ(岩隈投手)は今回、話に行ったときにも『基礎は近鉄』という感じで話してくれましたし。とにかく、あいつらには頑張ってほしいですよね」
球界再編の波が押し寄せた2004年、礒部氏を含むプロ野球選手会の尽力によってさらなる球団削減は避けられ、楽天の参入による12球団による2リーグ制を維持することができた。それから15年が過ぎ、当時のことを知らない人々の数も増え始めている。
「15年前というと、今の若い子の中には何が起きていたかわからない方もいると思います。もちろん、経験しない方がいいことだとは思いますが、こういうことがあったから選手会が強くなって、今も12球団が存続しながらやっているんだよ、ということを、中学生や小学校高学年くらいの子ならこの本によって理解できると思うので、読んでもらいながら球史の勉強をしてほしいなと思いますね」
当時のことを知らない野球ファンに対して特に伝えたいことを聞くと、礒部氏は次のように答えてくれた。
「一番最初に、近鉄という豪快なチームがあったんだよ、ということを教えてあげたいです。また、経営や商売の話になってくるので、プロ野球でチームを残すということは非常に難しいんです。本に書いた内容も含めて、今後プロ野球が良くなるように、こういうこともあったんだよということを教えていってあげたいなと思います」
「この本によって、まだまだ近鉄で繋がることができると思います」
奈良県に、「B-CRAZY」という居酒屋がある。店主の浅川悟氏は球団消滅から15年が経った今も近鉄を愛し続ける生粋のファンで、今回の書籍でインタビューを受けた人物の一人でもある。店には多くの近鉄グッズが展示され、近鉄OBを招いたイベントも度々開催。礒部氏も、実際にこの店を訪れたことがあるという。
「別件で足を運んだ際に“近鉄難民”という言葉を使わせていただいたのですが、どこを応援したらいいかわからなかったり、近鉄がなくなってどこか気が抜けてしまったりと、僕たち以上に苦労しているファンの方々もいます。このような本を出したことによって、昔の話をしたり、ファンの方と一緒になって、イベントの中でいろいろな話をしながら楽しんでいければと思います」
通算4度日本シリーズに臨みながら一度も日本一に輝くことなく消滅した、「記録よりも、記憶に残るチーム」だった近鉄。最後に、礒部氏は当時から現在まで近鉄を応援し続けているファンの方々や、この本を手に取ってくれる人々に対して、メッセージを贈ってくれた。
「もう近鉄というチームはないですが、この本によってまだまだ近鉄でつながることができると思います。そのつながりは僕も一生続けていきたいですし、ファンの方とのふれ合いや、固い繋がりができればいいなと。いいメンバーに話を聞いて、元永さんと集英社さんにまとめていただき、僕たちとしても本当に感動できる良い本になったので、ぜひ購入していただきたいなと思っています」
かつてパ・リーグには、その豪快な野球で人々を魅了した、近鉄バファローズというプロ野球チームがあった。西本氏から続く近鉄の伝統を引き継いだ礒部氏たちが、またその次の世代へと「近鉄」という存在をつないでいく。たとえ球団がなくなったとしても、近鉄を愛し、後世にその輝きを伝えたいと願う者がいる限り、「記憶」という名のバトンは、きっと受け継がれ続けていくことだろう。
礒部公一氏が選ぶ、近鉄の歴代ベストナイン
インタビューの最後に、55年の歴史を持つ近鉄の歴代ベストナインについて礒部氏に聞いた。投手(野茂英雄氏)、三塁手(中村紀洋氏)、監督(西本幸雄氏)の3ポジションはほぼ即決。とりわけ頭を悩ませていたのが遊撃手のポジションで、当初はキャリア序盤に強打のショートとして活躍した村上隆行氏の名前を挙げながら、最終的には同じく若手時代に遊撃手としてプレーしていた水口栄二氏を選出している。
一塁手としては礒部氏と同じ1997年に入団して主砲として活躍し、イチロー氏と首位打者争いも演じたフィル・クラーク氏を「僕が見た中では一番」と高く評価したが、1994年の打点王にも輝いた石井浩郎氏を選出。外野は礒部氏本人が「僕は別に入らなくてもいいと思いますけどね」と語るほど層が厚く、主力として安打を量産した3選手が名を連ねた。
礒部氏が選ぶ、近鉄バファローズの歴代ベストナインは以下の通りだ。
投手:野茂英雄氏
捕手:梨田昌孝氏
一塁手:石井浩郎氏
二塁手:大石大二郎氏
三塁手:中村紀洋氏
遊撃手:水口栄二氏
左翼手:タフィー・ローズ氏
中堅手:大村直之氏
右翼手:新井宏昌氏
指名打者:ラルフ・ブライアント氏
監督:西本幸雄氏
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