「オレたちの福浦」が歩んできた、果てしない道のり

パ・リーグ インサイト マリーンズ球団広報 梶原紀章

2016.7.17(日) 00:00

千葉ロッテマリーンズ・福浦和也選手 ※球団提供
千葉ロッテマリーンズ・福浦和也選手 ※球団提供

その名前がコールされると、大きな声援が沸き起こった。前半戦最終戦となった7月13日の福岡ソフトバンクホークス戦。一軍昇格したばかりの福浦和也内野手が代打で登場し今季、初めて一軍の打席に立った。8回2死1塁。ホークス先発の千賀投手のストレートをはじき返した打球は中飛に終わったが、スタンドからは拍手が沸き起こった。「オレたちの福浦」と誰よりもファンから愛される男の新たな一歩が始まった。そしてこの試合出場は記念すべき、本拠地QVCマリンフィールドでの通算1000試合出場となった。歴代の名選手たちでは、堀幸一現一軍打撃コーチが863試合出場。初芝清氏が669試合出場。現役ではサブロー外野手が843試合出場。誰よりもマリンを知り、マリンから愛される男の証となる数字だ。

「それは知らなかったなあ。そんなになるのかあ。これだけ、やっていると、そうなるよね」

すべてのスタートとなったマリンでの初出場は1997年7月5日のオリックス戦。1996年6月に立川隆史外野手(現解説者)、1997年6月に大塚明外野手(現二軍外野・守備走塁コーチ)と次々と同じ年で同期入団の選手が一軍に呼ばれ、一軍でプロ初ヒットを打つなど結果を出していく中でようやく巡ってきたチャンスだった。何かあるたびに、「一軍は凄いぞ」と2人から一軍の話を聞き、刺激を受けていた。「次はオレが…」との思いを強くした。しかし、駆り立てられる思いがあっても、一軍首脳から声がかからないと始まらない。必死にバットを振り、いつ呼ばれてもいいようにと準備を繰り返す我慢の日々を過ごした。

「明日から一軍だ」。秋田遠征中の1997年7月4日の夜。急な招集がかかった。その夜は興奮のあまり、眠りに就くことができなかった。だから、ホテルの自室でひたすらバットを振った。後日、同部屋だった後輩選手から「あの時は素振りの音が聞こえていて、寝られなかった。でも、邪魔をしてはいけないと、ひたすら寝たふりをしていた」と聞かされた。今となっては笑い話だが、当日はそれほど興奮をしていた。

14時開始のデーゲームに間に合わせるため、秋田からの早朝の飛行機に飛び乗っての当日移動。打撃練習が終わりかけた頃にマリンに到着した。そして、まさかのスタメンを言い渡された。「家族を呼ぼうにも急だった。だから誰も見に来ていない」。7番一塁でスタメン出場。4回にはフレイザー投手から初ヒットを放った。インコースのスライダーにドン詰まりした当たりはポトリとセンター前に落ちた。記念すべき一軍でのプロ初ヒットだった。2000本安打を目前に控える男の伝説はまさにここから始まった。

「まさかね。あそこからここまで来るとはね。本当に思ってもいないよ。毎日が必死。一日でも長く、悔いのないように野球をやりたいという思いだけ。本当に毎日が、ガムシャラで、この世界で生き残るのに必死だった」

18歳の頃は背番号「70」の細身のピッチャー。ドラフトでの指名は最後の7位。二軍の練習についていけずにグラウンドで科せられたランニングでは1周遅れ、2周遅れになった。そして暑さに耐え切れず毎日のように倒れてはベンチ裏で嘔吐を繰り返した。悩んで病院に行ったこともあった。医者には「鉄分不足ですね」と告げられた。プロ野球選手失格だと、情けなくなり、涙しながら帰路についたのは、もう遠い過去の話だ。

「これは無理だなって。すぐにクビになると思った。でも追い込まれていたからこそ、悔いが残らないように練習をしようと必死になった。だから投手から野手転向を勧められた時も、悔いが残らないようにチャレンジしようと切り替えることができた」

先輩たちの励まし。様々な指導者との出会い。努力と辛抱を重ねて徐々に才能を開花させた。投手から野手に転向。細い体を補うためウェートを積極的に行うようになった。超一流バッターの映像を食い入るように見ては、参考にしてみた。当時だとオリックス・イチロー選手、広島・前田智徳選手、メジャーではマリナーズのケン・グリフィー・ジュニア選手。さまざまな映像を見て、バットを振ってみた。鉄分を吸収することを意識して食事を心がけることでスタミナもついていった。そんな地道な努力の積み重ねがあり、今がある。

「記録についてファンの方が喜んでいるのであれば、それは嬉しいこと。ただ、いつも言うように自分は記録のことは考えていない。それは終わってから振り返ればいいこと。大事なチームの勝利。個人の記録を追っかけるつもりはない。だから、この記録も同じ。それよりも、きょう負けた。それが悔しい。でも、ちょっとしたきっかけでチーム状況は変わると思う。後半戦、チームの勝利に貢献できるように頑張るよ」

試合後、淡々と記録のことを振り返り、熱くチームの勝利を願った。そんな男だからこそ、誰からも愛される。スタンドのファンは2000本安打達成を熱望する。

福浦が試合で使うバットのグリップエンドに家族の名前が書いてある。そして2000年に病気のために亡くなった母の名前を書いている。バットを新しくするたびに次のバットにも書く。試合前、丁寧に気持ちを込めて家族の名前を書き込んでいる。それは昔から変わらない大事にしていることだ。

「オレの母は野球が好きでね。マリンにもよく見に来てくれた。いつも見守ってほしいという思い。そして家族のために戦うという気持ちを忘れないために書き込んでいる」

愛する家族と、野球が大好きで、いつも自分を優しく見守ってくれた亡き母を安心させるために、これからも変わらぬ姿勢で打席に立つ。プロ23年目、2047試合に出場をした大ベテランはこれからも記録を打ち立てるだろう。それらは、自分を犠牲にしてチームの勝利を優先した中で、達成しているからこそ、さらなる価値を感じる。シーズン後半戦。マリーンズのレジェンドから目が離せない。

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