投手のイメージが強い背番号をつけたパ・リーグの選手たち

パ・リーグ インサイト 武山智史

11月24日、雪の札幌で行われた北海道日本ハムの新入団選手発表会見。中でも注目を集めたのは7球団が競合したドラフト1位・清宮幸太郎選手の背番号が何番になるかということだった。発表された背番号は「21」。北海道日本ハムの背番号21といえば前身の東映時代から土橋正幸氏、高橋直樹氏、西崎幸広氏、そして今季まで背負っていた武田久投手とチームを引っ張ってきた投手たちがつけてきた背番号。パ・リーグの他球団を見渡しても福岡ソフトバンク・和田毅投手、東北楽天・釜田佳直投手、埼玉西武・十亀剣投手、オリックス・西勇輝投手、千葉ロッテ・内竜也投手とすべて投手だ。それだけに野手の清宮選手が背番号21をつけることには驚きの声が上がった。

しかし球団側の意図は「固定概念に囚われず、新しいプロ野球選手像を築いてほしい」というものだった。

日本では「背番号21=投手の番号」だが、メジャーリーグでは背番号21をつけた野手のスーパースターがいる。かつてパイレーツで活躍した名外野手のロベルト・クレメンテ氏だ。プエルトリコ出身のクレメンテ氏は首位打者4回、メジャー通算3000安打とグラウンド上での活躍はもちろん、慈善活動も積極的に行う選手だった。しかし1972年12月、地震で被災したニカラグアに向かう飛行機に同乗するも、その飛行機が墜落し現役選手のまま38歳で亡くなった。その偉業はメジャーリーグで毎年、慈善活動を行った選手を称える「ロベルト・クレメンテ賞」として今も語り継がれている。他にもカブスなどで活躍し、本塁打王、打点王をそれぞれ2回獲得したサミー・ソーサ氏も背番号21の代表選手だ。そのソーサ氏も1998年、ロベルト・クレメンテ賞を受賞している。

北海道日本ハムで投手のイメージが強い番号をつけた野手といえば、大島康徳氏がいる。中日時代は本塁打王を獲得するなど中軸として活躍した大島氏は1988年、日本ハムに移籍。後にダルビッシュ有投手、大谷翔平選手に受け継がれる背番号11をつけ、開幕から4番を任され打線を引っ張った。1990年には通算2000安打を達成。選手晩年は代打の切り札としてその存在感を発揮した。

千葉ロッテの背番号21も以前、野手がつけていた時期があった。1995年に入団したフリオ・フランコ氏はレンジャーズ時代の1991年に首位打者を獲得した、現役バリバリのメジャーリーガーとして話題を呼ぶ。シーズンに入ると主に4番を任され、独特の構えから右方向へ安打を量産。リーグ打率3位の.306でチームの2位躍進に大きく貢献した。その後インディアンス、ブルワーズでプレーした後、1998年に千葉ロッテへ復帰。この時は背番号7だった。フランコ氏が一度チームを離れた後、1997年から背番号21となったのは外野手の平井光親氏だった。1991年に首位打者を受賞した平井氏は49→2を経てこの番号に。背番号21になって2年目の1998年にはイチロー選手(当時オリックス)に次ぐ打率.320でパ・リーグ打率2位と活躍した。引退する2002年まで背番号21でプレーし、1年空いて2004年から内投手が背番号21となっている。

清宮選手は入団発表会見から2日後の11月26日、札幌ドームで行われたファンフェスタで他の新人選手とともに登場。札幌ドームに集まった大勢のファンを前に、「北海道から世界へ」と書いたサイン色紙を披露した。開拓の地・北海道から大谷選手の「二刀流」のように、新たな歴史を作っていく活躍がこれから期待される。

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