野村克也はハワイで“産まれた” 呉や沖縄、高知でも…鷹キャンプ地の歴史

Full-Count 広尾晃

2019.1.26(土) 10:29

福岡ソフトバンク・工藤公康監督※写真提供:Full-Count(写真:藤浦一都)
福岡ソフトバンク・工藤公康監督※写真提供:Full-Count(写真:藤浦一都)

現在は宮崎市の生目の杜運動公園で1軍から3軍まで全選手が集結する

 福岡ソフトバンクホークスの前身である南海は、1938年秋季からペナントレースに参加した。戦前、1リーグ時代は春季キャンプは行っていなかった。シーズン開幕前に当時の本拠地だった中百舌鳥球場に集まって練習をする程度だった。

 本格的なキャンプは、1951年、この年完成した広島県呉市の呉市二河球場で始まった。呉市は当時監督だった山本一人(のち鶴岡と改姓)の出身地であり、その縁もあってキャンプ地となった。

 以後、大阪球場や中百舌鳥球場などでもキャンプが行われたが、1956年はハワイに遠征し、ハワイのマイナーチームやアマチームと対戦した。南海は現地在住の日本人、日系人の大歓迎を受けたが、山本監督は選手があまり練習せず、毎日のように遊びに出かけたために渋い顔をしていた。

 しかし、このハワイ遠征に「壁(ブルペン捕手)」として連れて行ったテスト生上がりの野村克也は、毎日使用したボールの数を山本監督に律儀に報告するとともに、熱心に練習に励み、まじめな態度が目立った。山本監督は、日本に帰国して、空港で記者団のインタビューを受け「ハワイ遠征の収穫は野村だけや」と語った。この年から野村はホークスの正捕手となり、大選手への道を歩むことになる。

 南海は鶴岡監督の退任後、一時期高知市の大方町や安芸市、和歌山県田辺市などでキャンプを行ったが、1981年、ブレイザー監督の就任とともに再び呉市二河球場でキャンプを行った。この時期、連載を開始していた漫画「あぶさん」では呉キャンプの様子が何度も描かれている。

 南海電鉄から福岡ダイエーに親会社が変わり、本拠地が福岡になった1989年以降、ホークスは福岡、沖縄県読谷村などで春季キャンプを行ったが、1991年からは高知市野球場、高知市東部野球場がメインのキャンプ地となる。

遠方からのファンが座席を確保できるように、一部を有料座席に

 2005年に親会社が福岡ダイエーから福岡ソフトバンクに変わると、キャンプ地は現在もキャンプを行う宮崎県宮崎市の生目の杜運動公園へと移った。35ヘクタールの広大な敷地で、1軍から3軍まで、90人以上の選手が一堂に会してャンプを行っている。

 宮崎市では巨人、オリックスもキャンプを行っているが、福岡ソフトバンクは地元九州の球団だけに人気は高い。JR宮崎駅からは、各キャンプ地にシャトルバスが出ているが、便数はホークスキャンプが一番多い。また併設されるホークス・ビレッジではB級グルメや地元特産品などの店舗が数多く並んでいる。

 ホークスは昨年からメイン球場「アイビースタジアム」の一部を有料席とし、前売り券を発売した。これは人気が高まって早朝から地元宮崎のファンが集まり客席を埋めてしまうため、遠方のファンのために席を確保するためだ。前売り券には、地元特産品などのプレゼントもついている。

近年は、沖縄県に春季キャンプ地が集中する傾向にあるが、ホークスは宮崎市を動かない。その理由として担当者は、1~3軍までが1か所で練習できる大きな施設が沖縄県にないことと、温暖な沖縄は仕上がりは早いが、本土に戻ったときに体調を崩しやすいことを挙げている。

 宮崎は福岡と気温の差はそれほどないが、春の訪れとともにじっくりとコンディションを整えていくことが可能だ。多くの球団は2月下旬にはキャンプを切り上げてオープン戦を転戦するが、福岡ソフトバンクは2月28日まで1か月、宮崎にじっくりと腰を据える。2月後半には梅の花が咲き、気温も上がっていく。ホークスはそれとともに臨戦体制になっていくのだ。

(広尾晃 / Koh Hiroo)

記事提供:Full-Count

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