松井稼頭央選手が引退会見 古巣での引退は「何かの運命かな」【全文】

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 埼玉西武の松井稼頭央選手が27日、メットライフドーム内の球団施設で現役引退会見を行った。15年ぶりに古巣・埼玉西武に復帰した今シーズンは23試合に出場、打率.129、2打点という成績で、ベンチを温めることが多く、9月15日に登録抹消。その後も一軍に帯同しながら、10年ぶり優勝を目指す後輩へのアドバイスを送るとともに、戦線復帰を目指し調整を行っていた。会見で松井選手は、古巣での引退を「何かの運命かな」と語り25年のプロ生活、そして残りシーズンへの思いを語った。

 松井選手は1993年ドラフト3位でPL学園高から西武(当時)に入団。入団2年目からレギュラーに定着すると、97年から2003年まで7年連続で遊撃手のベストナイン、98年はリーグMVPを獲得するなど、チームの主力として3度のリーグ優勝に貢献。04年にFA権を行使してMLBメッツに移籍、07年にはロッキーズでワールドシリーズに出場するなど活躍。11年からは東北楽天に移籍し、13年の日本一に貢献。今季から埼玉西武に復帰した。

 以下は記者会見の全文。

 私ごとですが、今シーズンをもちまして現役を引退することをみなさんにご報告したいと思います。

-現役にこれまでこだわってきましたが、引退を決意された理由を教えてください。

(松井選手) ここ数年、毎年毎年1年が勝負として、やってきました。今年は楽天を退団して古巣ライオンズのユニホームを着て、これが最後の年と思って過ごしてきました。登録抹消になって、初めて自分と向き合える時間があり、そろそろかなと思いました。辞めるという決断をして、球団、お世話になった人に報告をして今日、会見を開かせてもらいました。悩みましたが、この時が来たと感じ、引退を決意しました。

-印象に残る試合は?

(松井選手)日米通して、25年長い時間を過ごさせてもらって、何個か挙げるのは難しいです。本当に印象に残るとすれば、今シーズン最後の試合になると思います。

-25年間を振り返ると、どんな野球人生でしたか?

(松井選手)現役の間は毎年、次の1年と思ってやってきました。あらためて振り返ると、25年間という野球人生は悔しさでしたり、悔いであったりというのは思います。1人で来れた野球人生ではないので、周りの人たちのサポートでやってこれた。感謝の言葉しかありません。

-25年間、最初のライオンズ時代、メジャー時代、楽天時代、そして今、それぞれのステージで思い出に残っていること、印象に残っていることを教えてください。

(松井選手)高校を出て、西武ライオンズに声をかけてもらって、生まれた場所、育ててもらった場所です。フリーエージェントでアメリカに挑戦しましたが、最後は日本に戻ってプレーしたいと思って、楽天さんに声をかけてもらって素晴らしいチーム、ファンの下、7年間を過ごさせてもらいました。最後、辞める年に古巣ライオンズに声をかけてもらったことは何かの運命かなと思っていました。辞めるのであれば最後はここで辞めたいと思っていました。

-特に記憶に残っている試合、打席を教えてください。

(松井選手)プロ初打席、初安打だと思います。小さい頃からプロ野球選手を目指して、プロ野球選手になって一軍という場で打席に立たせてもらった。そこは原点だと思います。

-対戦して印象に残っているピッチャーは?

(松井選手)僕が、(最初に)ライオンズにいたときはエース級の投手ばかりが(チームメイト)だったので対戦しなくてよかったです。やっぱり、松坂大輔とはアメリカでも対戦しましたし、今年はオープン戦ですけど対戦できました。同じチームで一緒にやっていたという気持ちの中で、勝負ができたという思いはあって、楽しみにしていましたし、対戦できてよかったと思います。

-よかったこと、つらかったことは?

(松井選手)25年間も現役をやらせてもらったことは、選手として非常にうれしいです。25年もやらせてもらうと、苦しかったり悔しかったりが多いのですが、少しの喜びを得るためにいつもやってきたと思います。

-プロ1年目の記憶は?

(松井選手)高校まで投手で、プロに入って、野手になり、常にチャレンジをしていた記憶しかないです。ショート、スイッチヒッター(に挑戦し)、ほかのことを考えることもなく突っ走ってきました。やってきた積み重ねが最後の最後に大きなものになったと感じています。

-輝かしい成績を残せた要因は何だと思いますか? 

(松井選手)いろいろな方との出会いだと思います。プロ2年目、東尾(修)監督に抜擢していただきました。東尾監督と出会わなければ今の僕はなかったと思います。アメリカから帰ってきて、星野(仙一)監督にお世話になったときも、出会わなければ、ここまで長くできなかったと思います。家族のサポートも大きいですね。家族を犠牲にして野球だけをやらせてもらった18年。そばにいてくれたからこそ、できた18年だと思います。

-引退を決意されたときは誰に伝えましたか?

(松井選手)家族に伝えました。(引退は)わかっていたと思います。妻には「お疲れ様」と言われました。娘も顔を見るたびに抱きついてきて、泣いていましたね。息子は「そうなの」という感じです。つらかったですが、家族がいたからこれだけの長い野球人生を過ごせたと思います。SD(渡辺久信・球団シニアディレクター)にも報告させていただいて「お疲れ様」と言葉をいただきました。育った場所で引退をさせていただくことには、感謝の言葉しかありません。

-チームメイトとは何を話しましたか? 

(松井選手)25日、仙台の試合前に、チームが大事な時期ですが時間をとってもらって話をさせていただきました。その試合は0対2でずっと負けていたので「タイミングどうだったのかな」と思っていたら、最後にチームが逆転勝ちをしてくれてホッとしました。

-現役にこだわった中、今シーズンはどのような思いでやっていましたか?

(松井選手)結果が伴わない中、準備だけは常にやってきましたが、今年の春のキャンプでも久しぶりにこのユニホームに袖を通して、興奮と楽しみと不安の中、1試合でも多く試合に(出たい)という気持ちでやってきました。試合でもあれだけの声援をいただいて、本当にうれしかったです。

-ライオンズはご自身にとってどんな存在ですか?

(松井選手)ここで生まれ、ここで育ち、また最後ここで引退する。運命的なものを感じますし、チャンスをいただいたライオンズには感謝しかありません。

-日米の野球の違いに思うこと、感じることはありますか?

(松井選手)太陽の近さだったり、芝の匂いだったり……。グラウンドに入ると、芝の匂いを嗅いで、子どの頃のようにじゃないですけど、そういう感覚を持って野球をしていたと思います。

-アメリカへの思いは?

(松井選手)僕自身日本でやって、アメリカに行きたいと思ったのは、どれだけすごい身体能力の選手がいるのかと、まずそこに興味を持ちました。29歳の年で(メジャー)1年目だったので、行くとしたらこのチャンスしかないと。野球人生もそんな長くない中で、アメリカに行く道が少し広がってきた中、自分も1度挑戦したいという思いで挑戦しました。アメリカに行って7年間、いい経験をしましたし、悔しい思いもしましたし、本当にチャレンジの連続、勉強の連続。今振り返れば……、いい経験をさせていただいた7年間だったと思います。

-先日2000安打を達成した千葉ロッテ・福浦選手や巨人・上原投手という野球界を引っ張ってきた同世代への思いは?

(松井選手)やっぱり同級生は意識します。何度か渡させていただいたケースもありましたが、今回福浦選手に花束を渡せたのは、同級生に渡せるチャンスはなかなかないですし、これもめぐり合わせと言いますか。それが一番印象に残っていますね。僕も刺激をもらいながら、同級生に負けまいとやってきました。福浦、上原よりも1年でも長くという気持ちでやってきて、常に意識はしてますね。

-心残りや思い残すことは?

(松井選手)思い残すことはいっぱいありますが、それが引退するということだと思います。当然やりきったとは言えませんし、でも自分で決断するときはこういうときなのだとあらためて考えさせられました。残りまだシーズンもあります。僕自身、兼任コーチという立場でありながら、まだ選手として、チーム全員最後まで一つになって戦いたい。最後終わるまで終わりじゃないなと思っています。

-今後のことはどのようにお考えですか?

(松井選手)まだ先のことは正直考えていないです。でもユニホームを着させていただいて、野球には携わっていきたいという気持ちもあります。それよりまず日本一目指して、全力で全うしていきたいです。

-チームが佳境を迎える中、選手として、テクニカルコーチとして、どのようなお気持ちで臨もうと思っていますか?

(松井選手)リーグ優勝、クライマックスシリーズ、日本シリーズとありますが、僕はライオンズでお世話になって、まだ日本一がないんです。日本一になって最後の花道を飾れるように、その輪の中にいられるように、これからチーム、ファンのためにやっていきたいと思います。

-松井選手にとって野球とはどんな存在ですか?

(松井選手)当然なくてなはらない存在ですし、野球を好きで始めて、今もまだ野球が好きです。この先も好きであり続けると思いますし……、そう言うと好きしかないのかなと思います。好きのまま終われる野球人生、これでいいと思います。

-いつもクールで凛々しい松井選手ですが、引退会見といえば涙かなと思うんですけれども。

(松井選手)うれし涙は最後にとっておきたい。

-そのうれし涙というのは?

(松井選手)日本一です。

-数々の記録打ち立ててこられましたが、特にプレーでこだわってきたことは?

(松井選手)走攻守ですね。僕はすごいバッターじゃないですし、守備も大してすごくないですし、足だけは少し速いかな。すべてが兼ね揃って、初めて一つになると思っていました。3つがすべて重なって初めて、松井稼頭央なのかなという思いで25年間やってきました。この年齢になって動けることが第1条件で、そうじゃなければ僕じゃないなと。

-最も自分を褒めてあげたいことは?

(松井選手)苦しさであったり、悔しさであったり、それを続けてきたことを褒めたいと思っています。

-25年前、このような場を迎えることを想像できましたか?

(松井選手)想像できなかったです。まさかプロ野球の世界に入れるとも思わなかったですし、自分の中では20年間、選手として、という思いを持って現役を続けてきました。まさかスイッチヒッターになるとも思っていなかったですし、アメリカに行くとも思っていませんでしたし、そしてこうして引退会見を開いていただると思っていなかったので、本当に夢といいますか、自分の思い続けてきたことの積み重ねがこれだけ大きなものにしてくれた。そして、そこにいくまでにはみなさんの支えだったり、みなさんとの出会いだったり、そういうものは自分の中で非常に大きいものだと感じました。

-今後、ファンの方にどのような姿を見てほしいですか?

(松井選手)グラウンドに出ている姿を見てもらいたい。最後、胴上げをしてもらっているところをぜひ見てもらいたいという……イメージです。それに向かって、全員で一つになって、束になってやっていきたい。ファンの声援を力に変えて、ファンあってのプロ野球、ファンあっての選手だと思うのでファンに感謝して戦っていきたい。

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