自由競争時代の強打の内野手、争奪戦が過熱
南海ホークスで外野手、監督として活躍した穴吹義雄氏が7月31日、亡くなった。85歳だった。穴吹氏は1933年香川県生まれ。高松高から中央大に進む。中央大では2年連続首位打者になるなど屈指の強打者として活躍。4年生時の1955年にはプロ野球各球団による争奪戦になった。
ドラフト制度がなかった1950年代、各球団は選手獲得に札束攻勢をかけた。南海の鶴岡一人監督は、穴吹氏が3年生の時にはすでに声をかけ、相談に乗る間柄になっていた。
4年生になって、同じ高松出身の水原監督がいる巨人、同じく三原監督の西鉄、中央大理事を兼務していた大川オーナーが率いる東映、阪神などが、穴吹争奪戦に参戦したが、穴吹義雄氏の兄など家族、後援者の信頼も勝ち得ていた南海が、穴吹氏を射止めた。
札束が飛び交う穴吹争奪戦は、マスコミの知るところとなり、これをモデルにした「あなた買います」という小説が発表された。1956年11月には佐田啓二(中井貴一の父)の主演で映画化され、世間の関心を呼んだ。
南海「400フィート打線」の目玉、デビュー戦でサヨナラ弾
1950年代前半の南海は、俊足好打の内野手を集め、スピード野球で覇権を競った。この「100万ドルの内野陣」は一世を風靡したが、ライバル球団は、強力打線でこれに対抗した。
中西太、豊田泰光、大下弘の西鉄ライオンズ、山内一弘、榎本喜八、葛城隆雄の毎日オリオンズなど、長打が売りの打線が登場する中で、鶴岡監督は南海も打線強化の必要性を痛感し、大学の強打者の獲得に乗り出した。
専修大学の杉山光平、法政大学の長谷川繁雄、立教大学の大沢啓二などが入団したが、中央大学の穴吹義雄は、その目玉ともいうべき存在だった。
大学の強打者をそろえた南海はこれを「400フィート打線」と名付け売り出す。穴吹氏は1956年、3月21日、大阪球場での阪急との開幕戦に6番三塁でスタメン出場し、9回裏に柴田英治から劇的なサヨナラホームランを打ち、最高のデビューを果たした。
しかし、穴吹は中距離打者であり、中軸を打つタイプではなかった。高卒たたき上げの野村克也、広瀬淑功などの選手が台頭する中で、次第にわき役に回ることが多くなる。3年目には外野に転向したが、下位打線を打つことが多くなった。1968年限りで引退。通算成績は1166試合3079打数814安打89本塁打404打点、打率.264。
南海の2軍監督として手腕、選手に慕われる人望
引退後はコーチ、2軍監督を歴任。選手育成には定評があり、多くの打者を一軍に送り出した。中もず球場や、大阪球場での2軍戦では、試合前、ダッグアウト前で選手の名前を呼んで「さあ、いこうぜ!」とはっぱをかける姿がよく見られた。練習メニューを組み立てるのがうまく、選手の長所を伸ばすタイプの指導者だった。
1977年シーズン終盤に野村克也監督が解任されると2試合だけ采配をとる。その後はまたコーチ、2軍監督となるが、1983年から85年まで南海の1軍監督となる。すでに弱小球団となっていた南海は、穴吹監督の采配をもってしても浮上は難しく5位、5位、6位と低迷。3年で退任した。しかし選手に慕われる人望篤い監督だった。
監督退任後は解説者、ダイエー・ホークスの編成部長を経て、恩師・鶴岡一人が創設した少年野球ボーイズリーグの指導者となった。大阪球場を知る野球人が、また一人この世を去った。
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