ヤクルト、南海で捕手、外野手として活躍
7月13日、ヤクルト、南海で捕手、外野手として活躍し、NPB史上最多のサヨナラ押し出し四球4回を記録した大塚徹氏が死去した。73歳だった。
大塚氏は1945年茨城県土浦市に生まれ、県立土浦三高時代から1964年に捕手として国鉄スワローズに入団。同学年には投手の高橋重行、外木場義郎、清俊彦、外野手の中塚政幸、高田繁らがいる。大投手金田正一とは1年、在籍が重なっているが1年目は一軍出場がなく、金田の球を受けることはなかった。
1965年、国鉄がサンケイと名称が変わった年に一軍に初めて出場するが、当時のサンケイには根来広光、平岩嗣朗、岡本凱孝と3人の捕手がおり、大塚の出番は少なかった。
12試合に出場したが捕手での出場は4試合だけ。外野、一塁も守ったが、偵察メンバー(相手投手が右か左かわからない時にスタメンに名前が乗り、最初の打席で交代する選手)としての起用も多かった。
以後、3年で52試合に出るが、マスクをかぶったのは27試合だけだった。
4年目の1968年に外野手に転向、初めて100打席に達した。俊足でもあり、1番に起用されることも多かった。シーズン終了1試合前の10月12日の川崎球場での広島戦では、1番左翼で先発し、同級生の外木場義郎から初回先頭打者ホームランを打つ。これが、プロ入り初本塁打だった。
以後、毎年出場機会が増え、1971年には101試合に出場。右翼を守り、2番、6番が定位置となった。左投手に比較的強い右打者として、左打者の内田順三と併用されることが多かった。
勝負強く、足も速く、選球眼も良く、犠打もできることから、使い勝手の良い選手として重宝される。またベンチでは野次将軍として知られ、明るい性格が人望を集めた。
巨人の左腕エース・高橋一三から2度のサヨナラ押し出し
1972年、かねてから大塚を高く評価していた南海の野村克也監督の尽力で南海に移籍。以後、出場機会は減るが、チームのまとめ役として貢献した。
1975年限りで引退。通算502試合784打数178安打2本塁打44打点7盗塁48四球、打率.227。
大塚はヤクルト時代(1969年、71年)、南海時代(72年、73年)に2回ずつ、合計4回「サヨナラ押し出し四球」を選んだ。これはNPB記録。このうちヤクルト時代の2つの押し出しは、巨人の左腕エース高橋一三から選んだもの。
高橋は、これがトラウマになったのか1973年にもサヨナラ押し出し。投手の最多サヨナラ押し出し記録を作っている。
なお、息子の大塚淳も土浦三高から2002年ドラフト11巡目でヤクルトに入団。捕手だったが、一軍に上がることはなく2009年限りで引退。もともとは内野手だったが現在はブルペン捕手を務めている。
記事提供: