富山にある一件の中華料理店で一人の青年がアルバイトをしていた。メインの仕事は皿洗い。時々、餃子作りを手伝った。千葉ロッテマリーンズ石川歩投手の高校3年冬。大学に入る前の数カ月間、アルバイトをしていた。
「友達が働いていて、誘われました。だから、お小遣い稼ぎにとなんとなく、働いていた。今となっては楽しい想い出ですね。」
明確な未来予想図を思い描く事が出来なかった時期だった。高校3年夏の富山大会は3回戦敗退。5回を投げて降板。石川の高校野球は終わった。ぼんやりと日々を過ごしていた時、野球部の部長から大学のセレクションを受けることをすすめられる。愛知県にある中部大学。自信がなく躊躇したが「練習に参加をして、目に留まればスポーツ推薦で入学し、野球を続けられる。ダメでもいいじゃないか。受けてみる価値はある」と説得された。難しいと思いながらも、言われるがままにとりあえずグラウンドに足を運んだ。
「大学で野球を続けるのはレベル的に無理だと思っていた。専門学校に行こうと思っていました。なにか手に職をつけたいなあと。本当にぼんやりとですが、服飾に興味があり、その専門学校を考えていました」
60人ほどが同じようにセレクションを受けていた。その中で10人ほどが合格すると説明を受けた。打撃投手とフィールディングチェックのノックを受けた。2週間後、まさかの合格の連絡が届いた。野球人生はこうして、紙一重のところで繋がる。高校のチームメート9人のうち、大学で野球を続けたのは石川と、もう一人だけだった。ちなみにもう一人のチームメートは現在、中学校の教師を務めている。
「本当に不思議な縁。野球とは不思議な縁で結ばれています。いろいろな分岐点はあって、いつ野球を辞めていてもおかしくはなかった。人生は不思議です」
ぼんやりとしかもっていなかった野球観が変わったのは大学に入ってからだ。監督やコーチからピッチングの色々なメカニックを教えてもらった。目から鱗が落ちたような心境だった。同じスポーツをやっているのに、まるで新しいスポーツにチャンレジしているかのような気持ちで日々を過ごした。大学ではキャッチャー出身のOBコーチの下、投球における下半身の使い方を徹底的に研究した。ノビ、キレ、球速。今の石川の基礎はこうして作られた。そして、社会人野球の名門・東京ガスから声がかかる。高校時代までの自分とは違い、社会人時代は明確な目標を持って過ごした。150キロを出す。3年目の7月についにその目標に到達した。この時、プロという世界を初めて夢でなく現実に見る事が出来るようになった。
「自分はモチベーションがないと駄目なタイプなので、あえて明確な目標を作りました。それが150キロだった。目標を持つとそれに向かって進んでいけた」
大学で教わった技術に加え、社会人時代はメンタル面を強化した。社会人野球は一発勝負。その中で「最初から全力で投げる」という事の大事さをアドバイスされ、徹底した。初球から最後の球まで悔いが残らないように全力で投げた。マウンドでは「攻める気持ち」を強く意識した。弱気にならない。徹底的に攻める。クールな顔とは対照的な攻撃的ピッチングはこうして生まれた。
どこにでもいるような普通の野球少年で、自分に自信を持つことも明確な夢を持つことも出来なかった若者はいつしかマリーンズにドラフト1位で指名される大型右腕に成長した。昨年はパ・リーグの最優秀防御率のタイトルを獲得した。そして今年、侍ジャパンの一員に選ばれた。
「第1回のWBCも、第2回も友達とテレビで見ていたのを覚えています。自分がその一員になる日が来るなんて夢にも思っていませんよ。奇跡です。だって、ボクですよ!もし高校時代のボクが、それを聞いたら腰を抜かすと思いますね」
そう言って背番号「12」は笑った。人生の可能性は無限に広がっている。それを誰よりも体現しているのが石川だ。石垣島での春季キャンプでは、マスコミから世界の舞台に関する質問が集中する。あるテレビ局からWBCでの抱負を聞かれた時、悩みに悩んだが、最後はキッパリと答えた。「世界一の絶景を見たいです」。大きな夢、明確な目標を持つ事がなかった青年が今は、はっきりとした誰よりも大きな目標を持っている。人生とはどう転ぶか分からない。次の世代へのメッセージを込めて『ゴエモン』の愛称でファンに親しまれる男は世界の舞台へと挑む。
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