05年10月17日。福岡ヤフードーム(当時)。千葉ロッテマリーンズが福岡ソフトバンクホークスを破って31年ぶりのリーグ優勝を決めた試合。サブローは泣いていた。試合中に泣いて、優勝が決まって、また泣いた。一方は悔し泣きで、最後は嬉し泣きだった。
「昔は悔し涙をよく流していたよ。その時は嬉しくて泣くなんてありえないと思っていたけど…。あったんやなあ、嬉し涙ってやつが…」。
ホークスとのプレーオフ第2ステージは激戦だった。2勝2敗で迎え、勝った方がリーグ優勝(当時はプレーオフ優勝チームがリーグ優勝)。05年10月17日は1点を争う緊迫した試合となっていた。サブローは4番・右翼での出場。忘れもしない打席は8回にまわってくる。1対2の1点ビハインドながら無死1,2塁。絶好の場面で4番打者。それまで一邪飛、遊併殺、一邪飛と結果を出す事ができなかったサブローは、自分で決めると強い気持ちで打席に向かった。勝ち越せば、夢にまで見た優勝が待っている。これまでお世話になってきた人たちの顔が頭の中に浮かんだ。
1年目、プロのスピードに対応できず苦しみ、夜遅くまでバットを振り、練習した日々。99年、当時の山本監督に抜擢され、このチャンスをつかもうと必死に結果を出したとき。人生の師匠であり、父親とも慕う故・高畠コーチとの特訓の日々…。ネクストバッターズサークルから、打席に向かうほんの2、3秒の間。走馬灯のように記憶が蘇ってきた。向かう打席の先に見たことがない優勝という世界が待っている。「優勝っていいぜ。ビールかけは最高だよ」。優勝を知る他のチームの選手から、そう言われてもピンとこなかった自分との別れ。それが今、現実のものとして目前に迫っていた。自分を信じて夢が現実になることを願ってバットを振った。
しかし、思いを乗せたボールは無情にもファウルゾーンに上がった。気が付けば、力ない打球がドームの天井に向かって飛んでいた。二邪飛。4番として最低限の仕事すらできなかったことが悔しくもあり、情けなくもあった。今までやってきたことはなんだったのか。そう思うと目頭が熱くなった。ベンチ裏に下がると、誰も見えないところで一人、涙した。しかし、まだゲームが終わったわけではない。気持ちを入れ直すと、仲間たちが逆転してくれることを信じてベンチに戻り、声を張り上げて応援した。
願いは届いた。その直後に里崎が左中間フェンス上段に直撃する逆転の2点適時二塁打を放ち、9回に守護神の小林雅英(現一軍投手コーチ)が締め、マリーンズナインが歓喜の胴上げのため、ベンチを一斉に飛び出した。右翼を守っていたサブローは外野手同士で抱き合った。すると涙が止まらなくなった。
「あそこで泣くなんて考えてなかったよ。メチャクチャ喜ぼうと思っていた。それなのに大塚さん(現二軍外野守備走塁コーチ)が柄にもなく泣いていた。あの人もこの試合で2三振。お互い苦しかったなあと思うと自然と涙が出てきた」
マウンドに向かうと、フランコ、セラフィニの外国人コンビに言われた。「サブロー、オマエがMVPだよ」。この試合は4打数無安打。しかし、助っ人たちは分かっていた。シーズンで4番として、時にはつなぎ、時には決勝の適時打を打ち続けてきた男。サブローこそが、優勝へと導いてくれた主砲だったことを。
「あの試合、全然駄目だったオレにそう声をかけてくれて本当に嬉しかったなあ。最後の最後はアカンかったけど、報われた気がした」
もう涙は止まらなくなっていた。試合中にベンチ裏で悔し泣きをして試合後、外野で泣いて、マウンドで泣いた。そしてビールかけで笑いながら泣いた。クールな男が、一日でこんなに泣いたことはない。それほど激しい一日だった。
「05年の優勝は嬉しかったなあ。楽しかったよな。本当にマリーンズは最高のチーム。愛している。これからもっともっと強い世界一のチームになって欲しい」
様々な思い出を残し、サブローは22年間の現役生活に別れを告げる。苦しい事、辛い事もたくさんあった。そして、嬉しかったこと、誇らしいことも同じくらい経験をした。そして何よりもこのマリーンズというチームで多くの人、ファンと出会うことができた。そのすべてが宝物だ。9月1日に行われた引退会見でそのことを思うと、涙が止まらなくなった。「男は泣くものではない」というのが哲学である選手が人目はばからずに泣き続けた。それは初めて優勝をした05年10月17日に見せた時以来の姿だった。
9月25日のオリックス戦(QVCマリン、13:00試合開始)に引退試合が組まれた。背番号「3」はユニフォームを脱ぐ。ただ、心はいつもマリーンズと共にある。日本一のチームになってほしい。世界一、魅力的なチームであってほしい。誰よりもマリーンズプライドを持つ男は次の世代にその想いを託す。
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