あと38安打と迫っている通算2000本安打の記録へと注目が集中する福浦和也内野手だが、もう一つ偉大な記録を樹立しようとしている。出場試合の球団記録更新である。これまでチーム歴代1位は榎本喜八氏の2161試合。現在、福浦は2152試合出場。あと9試合で並び、10試合で長らく超えることのなかった球団記録が更新されることになる。
「え、そうなの? それは知らなかった。すごいことだけど、それはやばいね。しかし、オレはピッチャーで入ってきた選手だからね。それも二軍でも一試合も投げていない。そんな自分が球団の偉大な記録に近づいているなんて夢にも思っていないよね」
沖縄県石垣島で25年目の春季キャンプを送っている福浦は、そう言って昔を懐かしんだ。1993年のドラフト7位で、投手として入団。プロの指名がなければ大学ではなく、社会人チームで野球を続ける進路を考えていた。それでも地元球団から指名を受けて背番号「70」を背負った。1994年、鹿児島県湯之元で行われた二軍キャンプ。ブルペンでは捕手を座らせることなく、立ち投げだけで一ヶ月が終わった。それはシーズンに入っても続いた。
結局、捕手を座らせたことも記憶にないまま、二軍で一試合も登板をせずに打者転向が決まった。高校時代は最速142キロ程度。球種はカーブにフォーク。ストレートとカーブのコンビネーションを基本に打者を打ち取るスタイルだった若者はあっさりと失格の烙印が押された。
「これは無理だなと思った。3年でクビだなって。たぶん周囲もみんなそう思っていたと思うよ。そんな出場試合球団記録に迫るなんて誰も思っていない。もちろん自分もね」
若者にとっての淡い挫折は実は栄光への第一歩だった。人生はどう転ぶか分からない。高校時代の公式戦では高校2年夏の4回戦(学館技術戦。秋津球場)でしか本塁打を放ったことがない福浦に、二軍首脳陣は打者としてのセンスを感じた。だから1年目のオールスター明けに打者としての挑戦が始まった。
初めての試合出場はすぐに訪れる。1994年7月23日、土曜日。ロッテ浦和球場でのイースタン・リーグ、横浜ベイスターズ戦(現横浜DeNA)。それが初の「公式戦出場」となった。投手から転向したばかりの細身の野手の出番はなかなか訪れない。試合が終わろうとしたら九回一死一塁。古川慎一外野手に代わる代打を告げられた。マウンドには友利結投手。必死に振った。ボールに食らいついたが、結果は浅いレフトフライに終わる。こうして野手としてのデビュー戦は終わった。その後は、一から鍛えるという首脳陣の判断のもと、10月まで出場した試合は5試合の6打席のみ。ヒットは生まれず、打点は併殺崩れの1打点のみ。出塁も四球が一つ。投手から転向したばかり。プロ野球は二軍とはいえ、甘くはなかった。
「とにかく練習をした。させられたというのが正しいけどね。あの時は本当にバットを振った。これでダメだったら終わり。だったら悔いが残らないようにとね」
本人が振り返るように練習の日々が始まった。チーム全体練習前に朝練の特打。試合後も特守に特打。寮に戻ってもバットを振った。遠征先での試合を終えヘトヘトに疲れて寮に戻ってきた際も室内で特打を命じられた。野手としての遅れは歴然。少しでも一人前になるべく、とにかくバットを振って、ノックを受けた。
1994年のイースタン・リーグ最終戦となった10月8日。忘れもしないベイスターズ球場での横浜ベイスターズ戦。マウンドには初打席の対戦と同じく、友利がいた。ストレートに振り遅れないように、早めにバットを始動させた。打球は右中間を真っ二つに抜けていった。二塁打だった。ここまで出場した2152試合を含めたさまざまな試合で、いろいろな試合が思い出に残っている。2005年のプレーオフ第2ステージ、福岡での福岡ソフトバンク戦。2010年のクライマックスシリーズ ファーストステージ、西武ドームでの埼玉西武戦。華やかな一打も確かに記憶に刻まれているが、この日のまばらな観衆の中で打った一本が忘れられない。やれるという確信を持てるほどの一打ではない。でも、確かに何か、打者としての一歩目を踏み出せた気がした。そんなヒットだった。
プロ初本塁打は翌1995年7月30日のイースタン・リーグ、ヤクルト戦(ロッテ浦和)。ヤクルト先発・荒木大輔投手の変化球を打った。本人いわく「スライダーか、カーブ。ギリギリの当たり。当時は浦和球場には外野にフェンスがなくてね。ライトをちょっと越えたところにポトリと入った。フェンスがあったら、どうだったか分からない感じの当たり」。
この年はレン・サカタ二軍監督の方針で若手が積極的に起用された。76試合に出場して打率.263、5本塁打、23打点。二軍ながら、野手としての成績は形になってきた。そんな福浦の記念すべき一軍初出場はその2年後の1997年7月5日のオリックス戦(当時千葉マリン)。それより先の活躍の日々は、誰もが知るところである。「70」だった背番号は「9」へと移り変わり、千葉の生きるレジェンドとしてファンに敬愛される存在となっている。
「千葉ロッテマリーンズに指名をしてもらえたのが運命だったとしか言いようがない。1992年に千葉に移転してきて1993年のドラフト。たぶん千葉の選手だから最後に取っておこうかということになったのではないかなと思う。そういう意味では、もし千葉に移転していなかったら指名されていなかったんじゃないかな。そして違う道に進んでいたら、2、3年で野球を辞めていたと思う。運命に導かれた。だから自分に課せられた使命をしっかりと果たしたいと思う」
42歳で迎えた25年目のキャンプ。18歳の安田尚憲内野手が存在感を示している。それでも生きるレジェンドも負けてはいない。バットコントロールに磨きをかけて偉業に挑む。2000本安打と2161試合出場の球団記録超え。それは運命に導かれてマリーンズ入りした福浦に課せられた使命である。
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