12月21日、千葉ロッテの古谷拓哉投手が現役引退を表明。「11月初旬に引退を決めました。球団から職員としてのチャンスをいただき、新しいことにチャレンジができるいい機会と考えました」と引退の理由についてこのように説明した。今後は千葉ロッテの球団職員として営業職を務める予定で、「今は気持ちを切り替えて、新しい仕事でまた別の角度から野球に携われることにワクワクしています。営業は経験がないので、実際にやってみないと分かりませんが誠心誠意、お客様としっかりと向き合っていけたら」と意気込みを語った。
古谷投手は北海道の駒澤大学附属岩見沢高校でエースとして2年夏と3年春に甲子園に出場。その後は駒澤大学に進学したが、高校時代で野球への情熱が燃え尽きてしまったという理由で硬式野球部には入部せず。しかし、野球から離れた普通の大学生活を送っていた古谷投手が突如、運命に導かれることになる。たまたま見ていたシドニーオリンピックでの松坂投手の姿に感化され、1年秋に硬式野球部に途中入部する。
とはいえ、そう簡単にはいかないのがこの世界の厳しいところ。いきなり復帰を果たした大学野球では結果を残せず、一般企業への就職を考えていたが、またもや運命に導かれることになる。社会人チーム・日本通運との練習試合に登板した古谷投手が好投を披露。この練習試合をきっかけに日本通運にスカウトされて入団。またも不思議な縁で野球を続けることとなる。
社会人野球でもエースにはなれず、控え投手に甘んじていた古谷投手だが、2年目の都市対抗野球で炎上した先発の敗戦処理として登板し、5回無失点に抑える好投。この投球内容がたまたま視察に来ていた当時の千葉ロッテ監督ボビー・バレンタイン氏の目に留まり、2005年の大学・社会人ドラフト5巡目で千葉ロッテから指名を受け入団。アマ時代に三度野球の女神に導かれプロの世界へ足を踏み入れた。
なかなか芽が出なかったが、入団5年目の2010年に中継ぎとして才能が開花。左投げの貴重な存在として58試合に登板し、防御率2点台の好成績をマーク。同年の日本シリーズでは4試合に登板し千葉ロッテの下克上に大きく貢献した。
翌年以降は不調に苦しみ登板数が減少、2012年はわずか10試合の登板に終わった。そこで、伸び悩んでいた古谷投手にコーチが先発転向を打診。その結果、先発に転向ことになる。
先発として挑戦した2013年、開幕一軍入りはならなかったが5月30日のイースタン・リーグの横浜DeNA戦でノーヒットノーランを達成。この投球が評価されて6月に一軍昇格を果たし、2度目の先発登板となった6月26日のオリックス戦。9回2死までノーヒットノーランを継続していたが坂口選手(現・東京ヤクルト)に三塁打を打たれ後一歩のところで大記録達成を逃してしまった。しかし次の打者を打ち取り初完封、先発初勝利を挙げた。その後はローテーションの一角としてシーズン終了まで活躍、15試合に先発登板し自己最多の9勝、防御率2.73をマークしチームのAクラス入りに貢献した。
翌年は開幕からローテーション入りするが交流戦から徐々に調子を落として中継ぎへ。シーズンを通して7勝、防御率は4点台と大きく成績を落としてしまった。2015年、16年と期待に応える投球ができずに登板数が大きく減少し、2017年は一軍登板なしに終わって引退を決意。プロ12年間で通算148試合登板、23勝の成績をマークした。
平均140キロの直球、スライダー、カットボール、チェンジアップ、カーブを操りコーナーを突く技巧派左腕としてプロの世界で戦った古谷投手。史上最大の下克上を成し遂げた2010年の活躍や、2013年の“ノーノー未遂”などファンの記憶に強く残る投手であったことは間違いないだろう。
「現役での一番の思い出は2010年に日本シリーズに登板をして日本一を経験できた事です。個人的には2013年のオリックス戦でノーヒットノーランを逃したこともありますが、あくまで個人的なことです。営業マンとしてノーヒットノーラン級の仕事ができるように頑張ります」とユーモア溢れるコメントを残した古谷投手。チーム、ファンから愛された技巧派左腕が12年に及ぶ厳しい戦いにピリオドを打ち、第二の人生を歩みだした。
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