「未完こそ完成」の価値観にならえば、近鉄バファローズは長い歴史を誇るプロ野球が世に送り出した最高傑作かもしれない。1949年の球団設立から2004年にオリックス・ブルーウェーブと合併するまで、55のシーズンでリーグ優勝を飾ったのは4度。頂点を見ることなく球団史に幕を降ろした悲哀が、猛牛軍団に唯一無二の物語性を付与している。
1979年、1980年、1989年のペナント制覇はいずれも語り草だが、2001年のリーグ優勝はとりわけ痛快だった。3月24日に迎えた日本ハムとの開幕戦は、初回に5点を奪われながら物ともせず、最終的に10対9と逆転勝利。極めつけは9月26日のオリックス戦で、9回に北川博敏氏が放った「代打逆転サヨナラ満塁優勝決定弾」は、史上最も劇的な優勝シーンとして記憶されている。
この年、“いてまえ打線”が放った211本塁打とともに、叩き出した770得点も両リーグ最多なら、喫した745失点は同ワーストという、球団の歴史的なカラーを示す豪快。オープン戦は12球団最下位の2勝9敗で、開幕前に解説者が軒並み苦戦を予想するなか、前代未聞となる「前年最下位からのパ・リーグ優勝」を果たしてみせた。ところがこの年も、日本シリーズは4勝1敗で敗れている。
強打者が居並んだこのチームの打線で、最もドラマチックなバッターが中村紀洋氏だった。リーグ最多の132打点を挙げて2年連続の打点王となっただけではなく、殊勲安打(先制打、同点打、勝ち越し打、逆転打、サヨナラ打の合計)33本はチームトップ。自己最多の46本塁打には、9月24日の西武戦で、9回に好敵手・松坂大輔投手から放ったライトスタンドへのサヨナラ2ランも含まれている。この一発で、大阪近鉄は12年ぶりのリーグ優勝へマジック1と王手をかけた。
当時、大阪の枠には収まらず、パ・リーグの顔であった中村氏は、そのキャリアで、プロ野球選手として得られるものをほとんど手にしている。1991年に渋谷高校からドラフト4位で近鉄へ入団すると、3年目には一軍へ定着して、1995年にオールスター初選出。2000年は9月にシドニー五輪へ参加しながら39本塁打と110打点で二冠に輝き、代名詞のフルスウィングと愛称“ノリ”の名を全国に轟かせた。
2004年、シーズン最中に降って湧いた球界再編問題を機に、オフはかつて断念したメジャーリーグ挑戦の道を選ぶ。地元大阪を離れた中村氏は以後、多くの球団を渡り歩くジャーニーマンとして、求められる場所を探すことになる。マイナー契約を結んだドジャースでは、メジャー昇格こそ果たしたが17試合の出場でノーアーチに終わった。翌2006年はオリックスへ“復帰”するも、1年限りで退団。オフは獲得オファーがなかなか届かず、越年して2月下旬に中日へ入団した。
当初は背番号3桁を背負う育成契約選手としてのスタートだったが、開幕前に支配下登録を勝ち取り、秋には近鉄時代に届かなかった日本一に辿り着く。日本シリーズMVPに選出された直後のヒーローインタビューで見せた表情は満面の笑顔だったが、周囲へ感謝の気持ちを伝え、ファンからの声援を受けるとさまざまな思いが去来したか。一転して、涙を見せた。
2008年シーズン終了後はFAとなり、移籍先として選んだ楽天に2年在籍する。2011年に横浜DeNAと契約を交わすと、2013年には通算2000安打と400本塁打の金字塔も打ち立てた。その両方に到達した選手は他に13人いるが、日本シリーズMVP受賞歴もあるのは長嶋茂雄氏、大杉勝男氏、秋山幸二氏、小久保裕紀氏の4人だけだ。また、中村氏は守っても巧みなグラブさばきと、高校時代に投手を務めた強肩で魅せ、三塁手として7回もゴールデングラブ賞に選ばれている。
2014年を最後に、現在はプロ野球のグラウンドから遠ざかっている。だが、2015年に自らが野球指導を行うN’s methodを立ち上げた際には、プロの舞台復帰を諦めておらず、「生涯現役」であることを宣言した。ホームページのトップ画面に現れる「NEVER RETIRE」の文字は、中村氏自身に向けられたメッセージでもあるだろう。尽きせぬ情熱ゆえに、その野球人生が完結することはないのかもしれない。今は無き、愛した球団がそうだったように。
※パ・リーグTVでは12月3日にN’s method主催の「第1回 中村紀洋杯 中学公式野球大会」 (http://tv.pacificleague.jp/page/pc/insight/detail.php?id=1118)を配信
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