現在は宮崎市の生目の杜運動公園で1軍から3軍まで全選手が集結する
福岡ソフトバンクホークスの前身である南海は、1938年秋季からペナントレースに参加した。戦前、1リーグ時代は春季キャンプは行っていなかった。シーズン開幕前に当時の本拠地だった中百舌鳥球場に集まって練習をする程度だった。
本格的なキャンプは、1951年、この年完成した広島県呉市の呉市二河球場で始まった。呉市は当時監督だった山本一人(のち鶴岡と改姓)の出身地であり、その縁もあってキャンプ地となった。
以後、大阪球場や中百舌鳥球場などでもキャンプが行われたが、1956年はハワイに遠征し、ハワイのマイナーチームやアマチームと対戦した。南海は現地在住の日本人、日系人の大歓迎を受けたが、山本監督は選手があまり練習せず、毎日のように遊びに出かけたために渋い顔...