
オリックスの平野佳寿投手(42)が、25日のソフトバンク戦(京セラドーム大阪)で引退セレモニーを行った。若月健矢捕手(30)は平野とバッテリーを組み、数多くの勝利を重ねてきた。若手時代のミスを糧とし、地道な努力を重ねて成長。平野が日米通算250セーブを達成した23年10月2日の日本ハム戦(京セラD)にも立ち会った。マスク越しに見たのは、成功しても失敗してもブレない精神力。選手会長として感謝をつづり、レジェンド守護神のユニークな素顔にも触れた。
※ ※ ※
■分岐点はサヨナラ負け
平野さんとバッテリーを組み、捕手として成長させていただきました。大きな分岐点となったのが、2016年のロッテ戦です。QVCマリンで同点の9回、平野さんが通算100セーブに王手をかけていました。僕は高卒3年目。必死にサインを出しましたが、1死三塁からフォークを止められず、サヨナラ負けしてしまいました。僕のミスですが、記録は暴投。申し訳ない気持ちしかありませんでした。
平野さんのフォークは浮くことがなく、途中まで真っすぐと同じ軌道で来ます。そして左右のどちらにも、揺れながら落ちるイメージ。平野さんのフォークが捕れなければ、1軍には入れません。「ああいう場面でも止められる技術を磨こう」と決意するきっかけになりました。(メジャー移籍を経て)日本に帰ってこられてからは、配球についての会話が増えました。常に考えていたのは、どこで真っすぐを使うか。フォークが警戒されるからこそ、大切なことでした。
僕の中でベストゲームは、2023年7月29日の日本ハム戦です。エスコンフィールドで1点リードの9回、1死満塁で打者は清宮くんでした。僕は2ボールから迷うことなく、フォークを要求しました。ファウルをもらい、直球を挟んでフルカウント。最後はフォークでセカンドゴロ併殺でした。
絶対に四球が許されない場面で「平野さんだったら大丈夫」という信頼があったからこその配球でした。勝負どころでの「高さ」は絶対に間違えない投手でした。山本由伸との共通点でもありました。「塁を何個埋めても、追い越されなければいい」という考え方を持っておられたと思います。
■日米250Sの試合も
日米通算250セーブの瞬間にマスクをかぶることができたのも、忘れられない思い出です。23年10月2日の日本ハム戦。3点差でした。これ以上点が入ると、セーブがつかなくなります。8回はチャンスで打席が回り、強振してショートゴロに倒れました。「三振しろよ。なんで打っているんだよ」と、みんなにツッコまれた記憶があります。今だから言えますけど(笑)。最後は2死二塁でマルティネスを打ち取りました。「良かった…」と心からホッとしました。
失敗することもありました。25年ぶりのリーグ優勝がかかった21年、ほっともっと神戸で、ロッテの荻野さんに同点のホームランを打たれました。1ストライクからのフォークでした。スライダーと悩んだ末の選択でした。「素直にいきすぎた」と後悔しました。そんな時に「ごめん、ちょっと甘かったな」と、あっさり言ってくれるのが平野さんでした。怒られた記憶も、ピリピリしているところも見たことがありません。肝の据わり方もプロフェッショナルでした。
平野さんって、ひょうきんなんです。シーズン中、ニックネーム入りのユニホームで試合をする「オリっこデー」というイベントがあります。平野さんの背ネームはピッペン。「期間中はピッペンと呼べ」って、平野さんが言うんです。若い選手はみんな「ピッペン」って。僕は凍りつきましたけど…(笑)。そうやって後輩との距離を縮めるのが、平野さんなんです。
守備力も高く、クイックやけん制の技術も兼ね備えています。無駄な進塁を許しません。9回に平野さんが投げると、グッと勝利に近づく感覚がありました。「まだやれるんじゃないかな?」と思うぐらい、当たり前にいる存在でした。でも、平野さんが引退されるという事実を受け止めなければいけません。一緒に3連覇もでき、やり残したことはありません。まずはゆっくりと休んで、これからも違う形でオリックスを引っ張っていただきたいです。ありがとうございました。平野さんは、みんなの憧れです。
◆若月 健矢(わかつき・けんや)1995年10月4日、埼玉・加須市生まれ。30歳。埼玉・花咲徳栄では3年時の13年春に甲子園出場。U―18日本代表。同年のドラフト3位でオリックス入団。21年から3年連続で山本(現ドジャース)と最優秀バッテリー賞を獲得。23年にゴールデン・グラブ賞を初受賞し、25年はベストナインとダブル受賞。180センチ、88キロ。右投右打。年俸1億8000万円。