阪神・淡路大震災から23年。オリックス・ブルーウェーブと「がんばろうKOBE」の記憶

パ・リーグ インサイト

2018.1.16(火) 00:00

オリックス・ブルーウェーブ(当時)のイチロー選手
オリックス・ブルーウェーブ(当時)のイチロー選手

1996年9月23日、グリーンスタジアム神戸。オリックス・ブルーウェーブ対日本ハム戦。同点で迎えた10回裏、イチロー選手のサヨナラ打で、ブルーウェーブは2年連続のリーグ優勝を決めた。

そのまま、日本一の頂まで駆け上がるあの年のことを振り返る上では、その前年のリーグ優勝が持つ特別な意味を、思い出さないわけにはいかないだろう。

1995年1月17日、午前5時46分

今から23年前の1995年1月17日、午前5時46分。日本国民にとっては忘れられない、忘れるべきではないその日、その朝。淡路島北部を震源とする阪神・淡路大震災が発生した。

ブルーウェーブの本拠地だった神戸は甚大な被害を受け、街は壊滅的な状況に陥る。戦後初の大都市直下型地震。テレビ画面の向こうで、なすすべもなく被害が拡大していく恐ろしい光景を目の当たりにした人も、きっと少なくはないだろう。

ブルーウェーブは震災直後から、選手寮の備蓄品を被災者に無料で配布するなどの支援にあたる。時期的にはオフシーズン、春季キャンプ前。スケジュールは大幅な変更を余儀なくされ、当然、同地域におけるプロ野球公式戦の開催は危ぶまれた。

「がんばろうKOBE」を合言葉に、青波軍団は歴史的な快進撃を見せる

しかし、神戸出身の宮内義彦オーナーによる「こんなとき神戸を逃げ出して何が市民球団だ。一人も来なくてもいいから、スケジュール通り絶対、神戸でやれ」という大号令のもと、ブルーウェーブはホーム開幕戦の実施に踏み切る。

すると、復旧しきっていない交通状況にもかかわらず、グリーンスタジアム神戸には3万人が詰めかけた。

そしてそれ以降、「がんばろうKOBE」を合言葉に一丸となった青波軍団は、当時わずか21歳のイチロー選手を筆頭に、歴史的な快進撃を見せる。

ブルーサンダー打線を擁し、夏の時点ですでにペナントレース独走状態。驚異的なスピードでマジックを点灯させると、震災から245日が経過した9月19日、11年ぶりとなるパ・リーグ優勝を果たした。

青波軍団、そしてオリックスの使命

若きイチロー選手は、首位打者・打点王・盗塁王・最多安打・最高出塁率の打撃五冠を獲得。

惜しくも日本一は逃したが、「がんばろうKOBE」のワッペンを付けて戦った彼らの姿は、神戸復興のシンボルとして、地域密着型のプロスポーツチームの理想的な在り方のひとつとして、日本プロ野球史と人々の胸に確かに深く刻まれた。

本拠地を置く地域が苦しんでいるとき、プロ野球には何ができるか。どれだけの力を持てるのか。23年前、ブルーウェーブが示したのは、そのひとつの答えだった。

「震災を振り返り、新しい世代に語り継ぐこと」、「傷ついた経験を通して、未来への教訓とすること」。それは、青波軍団の誇りを受け継ぐオリックスの使命でもある。

もう23年か、まだ23年か。

現在、青波戦士として現役を続けているのはイチロー選手のみ。大阪近鉄バファローズとの合併による「オリックス・バファローズ」の誕生に伴って本拠地は大阪に移り、震災を経験した選手寮も、多くのファンに惜しまれながら舞洲に移転。

田口壮二軍監督をはじめ、1995年の優勝を知る勇士たちがコーチ陣に名を連ねる一方で、昨年のドラフトで指名した12人のうち9人が、震災の後に生まれている。

あの年から、オリックス最後の優勝から、20年以上の月日が経過した。良きにつけ悪しきにつけ、否が応でも変化は訪れる。

近畿圏の子どもたちは、あの日の惨状から語り継ぐべき事実を学び、あるいはその年、「がんばろうKOBE」を合言葉に戦った人たちのことを耳にして、それぞれに思いを馳せるのだろう。

震災は、遠い過去の歴史ではない。もう23年か、まだ23年か。様々な心境で迎える1月17日。日本人として、野球ファンのひとりとして。この日はせめてわずかな間だけでも、あの震災の記憶に触れる日としてほしい。

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