西武にとって手ごわい相手ではなかった東京ドーム時代の日本ハム/伊原春樹コラム

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2022.7.16(土) 10:00

月刊誌『ベースボールマガジン』で連載している伊原春樹氏の球界回顧録。2022年5月号では東京ドーム時代の日本ハムに関してつづってもらった。

16年間で3人の監督が率いる



東京ドーム時代の日本ハムは監督がコロコロ代わった[写真は大沢監督]

 東京ドーム時代の日本ハムと言えば正直、私がコーチ、監督を務めていた西武にとって手ごわい相手ではなかった。印象としては監督がコロコロ代わり、戦い方が一定していなかったということだ。東京ドーム時代は1988年から2003年。この16年間で西武は森祗晶監督、東尾修監督、そして私とチームを率いたのは3人。対して日本ハムは高田繁監督、近藤貞雄監督、土橋正幸監督、大沢啓二監督、上田利治監督、大島康徳監督、トレイ・ヒルマン監督と実に7人の指揮官がいた。平均すると1人あたりの在籍年数はわずか2.29年だ。これでは安定した成績を残すことはできないだろう。

 だからか、監督で思い出すのは「瞬間湯沸かし器」と称された近藤監督の退場シーンや大沢監督が94年、最下位に沈んだ際、東京ドームで土下座をしたことなど、采配以外の面ばかりだ。大沢監督は「西武はバントばかりして、一つも面白くねえ」と“仕掛けて”きたこともあった。ただ、大沢監督の批判に関して森監督はまったく動じない。西武は初回から先頭打者が出塁すればほぼ送りバント。得点圏に走者を進めれば秋山幸二、清原和博、デストラーデのクリーンアップが控えている。そこで1点でも奪えば強力投手陣が守り切ることができるから、当たり前の戦略だ。そこを崩したいと挑発してきたのだろうが、あまり意味がなかった。

西武から日本ハムへ移籍して開花



柴田は印象深い投手の一人だった

 ただ、日本ハムには個性的な選手が多かった。印象に残っている選手の一人が柴田保光だ。柴田はあけぼの通商から西武初年度の79年にドラフト2位で入団した右腕。将来のエースとして期待され、根本陸夫監督も熱心に指導していたが、制球難でなかなか一軍に定着できなかった。在籍5年間で8勝のみ。83年オフに江夏豊との交換トレードで木村広とともに日本ハムに移籍する。

 そのタイミングで投球フォームを改造したことが功を奏す。真上から投げ下ろしていたオーバースローからサイドスロー気味のスリークォーターに。すると制球力が大幅に向上した。直球の球速は落ちたが、スライダー、シュート、カーブと多彩な変化球でかわす技巧派に変身した。移籍2年目の85年に11勝を挙げると、86年もチーム最多の14勝をマーク。87年に右ヒジ血行障害の手術を受けたが東京ドーム初年度の翌88年に復帰。12勝をマークした90年には4月25日の近鉄戦では東京ドーム、平成でともに初のノーヒットノーランを達成している。

 巧みに内外角を突く投球。見事な投球術にデストラーデやブライアント(近鉄)といった強打の外国人選手が手を焼いていた記憶がある(デストラーデは通算77打数18安打、4本塁打、8打点、28三振、打率.234。ブライアントは通算64打数15安打、5本塁打、12打点、28三振、打率.234)。

 ただ、日本ハムは野球がうまくなかったから、そこまで貯金はつくれない。西武相手にもよく先発してきたが、88年からの東京ドーム時代の柴田の成績は3勝7敗、9勝12敗、12勝10敗、9勝9敗、6勝12敗、7勝11敗とほぼ負け越し。通算でも84勝だが、あのまま黄金時代の西武にいて、投球フォームを改造していたら、きっと100勝は軽く超えていただろう。

写真=BBM

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