パ・リーグのもっとも長かった1日【1988年10月19日】

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2021.2.17(水) 11:00

1980年代のパ・リーグと言うより、日本プロ野球史を語る上で、欠かすことのできない1日だった。1988年、昭和63年10月19日、波瀾万丈の1日に何が起こったのか。


第2試合10回裏、すでに近鉄の勝ちはなくなった……

西宮球場の異変


 1988年、昭和63年10月19日の報知新聞(東京)の一面に近鉄・ブライアントの笑顔の写真が掲載されている。6月にリチャード・デービスが大麻所持で逮捕され、解雇。急きょ中日から獲得した選手だが、猛烈なフルスイングでホームランを量産し、近鉄快進撃の原動力となった。

 西武は10月16日、首位のまま全日程終了。4試合を残していた2位の近鉄は、17日の阪急戦にこそ敗れたが、18日、川崎球場でのロッテ戦はブライアントの2本の2ランもあって12対2と快勝。残るは、19日の同カード、ダブルヘッダーとなった。逆転優勝の条件は連勝のみだ。

 パ・リーグ史上もっとも長い1日として語り継がれる伝説の「10.19」。最初の激震地は川崎ではなく、西宮球場だった。まだ3試合を残していた阪急は試合がなく、練習日。12時20分、上田利治監督が中田昌宏二軍監督の後、投打の主力・山田久志、福本豊も呼んだ。そして13時、集合した選手に「オリエント・リースに球団が譲渡された」と告げる。上田監督は「リーグ優勝が決まる大事な日に、こんなことになり申し訳ない」と青ざめた表情で語った。

 すでにダイエーへの身売りが決まっていた南海の球団事務所では、首脳陣が集まり、89年の戦力検討会議をしていた。福岡への移転を嫌がり、移籍を希望していた門田博光の問題もあって30人ほどの記者が詰めかけていたが、阪急身売りの知らせに半分以上が移動。ロッテ-近鉄戦を控えた川崎球場の記者室からも関西メディアの相当数が帰阪している。17時からの会見で、本拠地は西宮のまま、新球団名は「オリックス・ブレーブス」となることも発表された。


第1試合の最後を締めたのは阿波野だった

 川崎球場での第1試合は、15時からスタート。ロッテが初回に2点を先制し、7回が終わった時点では3対1とリードしていた。8回表、試合が動く。一死後、近鉄・鈴木貴久がヒットで出塁すると、仰木彬監督が代打攻勢を仕掛け、まずは同点。さらに9回表には一死後、淡口憲治が二塁打。ロッテ・有藤道世監督は守護神・牛島和彦を投入した。

 ここで5回には本塁打も放っていた鈴木がライト前に運んだが、淡口の代走・佐藤純一は三本間に挟まれ、アウト。スタンドの歓声が悲鳴に変わった。当時の規定ではダブルヘッダー1試合目は9回打ち切り、延長戦なし。近鉄は完全に追い詰められた。代打で次の打席に入ったのは、プロ17年目、すでに引退を決めていた梨田昌孝だ。2球目を詰まりながらもセンター前に運ぶと、鈴木はタッチをかいくぐってホームイン。中西太ヘッドコーチ、選手たちが次々と抱きつき、お祭り騒ぎとなった。

 その裏、無死一塁から17日の登板で8回完投も敗戦投手となった阿波野秀幸が登板。疲れもあって二死満塁のピンチを招いたが、なんとか無失点で勝利をつかむ。

 時刻は18時21分だった。


第1試合を勝利し、近鉄ベンチはお祭り騒ぎに

最後は時間との戦い


 わずか23分後、第2試合が始まる。試合はまたもロッテが先制するが、6回に近鉄が追いつき1対1。7回表には吹石徳一、真喜志康永の2本のソロ本塁打が飛び出し、3対1とリードする。ロッテも粘って、その裏2点を挙げ同点。8回には近鉄はブライアントのソロで勝ち越し、9回裏、仰木監督は第1試合に続き、阿波野をマウンドに送った。しかし、阿波野は真っすぐのサインにクビを振り、自信があったスクリューを投げるも、高沢秀昭にレフトスタンドに運ばれ、三たび同点となった。


第2試合の7回、ホームランを打った真喜志を笑顔で迎える近鉄・中西太ヘッドコーチ

 球場が騒然としたのが、9回裏だ。無死一、二塁で阿波野が二塁にけん制球。高く浮いたが、セカンドの大石第二朗がジャンプしてキャッチし、そのまま走者の古川慎一と交錯した。押し出されるような形となり、ベースを離れた古川はタッチアウト。すぐさま有藤監督が猛抗議した。すでに試合時間は3時間30分を超えていた。当時のパ・リーグは最大12回までの延長戦で、4時間を超えると新しいイニングには入らない。長引く抗議に仰木監督もベンチを出て、「早くしろ」と怒鳴る。スタンドからは「有藤引っ込め」とヤジが飛んだ。


第2試合の9回裏、運命を変えたロッテ9分間の抗議

 9分後、ジャッジが変わらぬまま試合再開。二死満塁と攻め立てたロッテだが、レフト・淡口のスーパーキャッチもあって無得点。試合は延長戦になった。

 時間を考えれば、近鉄のチャンスは10回表のみだったが、無情にも無得点。時計は22時41分。開始から3時間57分が過ぎていた。もはや引き分けか敗戦しかなくなったが、マウンドに上がった加藤哲郎は投球練習を省略し、「早よ、打席に入れ!」とバッターに怒鳴る。仰木監督は両手を腰に後ろで組み、その姿を見つめていた。4対4のままゲームセット。試合時間は4時間12分だった。


試合後、仰木監督の目は真っ赤だった

 試合後、球場では真一文字に口を閉ざしていた仰木監督だが、その後、「こんな立派な試合ができて感動した。残念だけれど後悔はない」と目を潤ませて静かに語った。

 西武の優勝決定は近鉄の10回裏の守備の途中、22時44分。その瞬間、西武球場にいた500人のファンが歓声を上げ、テープを投げ込む。ラジオ中継を自分の車の中で聞いていた森祇晶監督も現れ、ナインの手で胴上げ。その後、療養中だった昭和天皇の病状もあり、アルコールなしでの祝勝会を行った。


西武球場では静かな優勝セレモニーが行われた

 すでにセの優勝を決め、合宿中だった中日・星野仙一監督も宿舎のホテルで会見。「選手がやりたがっていた相手でよかった」と自身の現役最終年、82年の優勝時、日本シリーズで敗れた相手へのリベンジを誓った。

 試合はテレビ朝日が21時からの「さすらい刑事旅情編」のスタート時間を幾度となく変更しながら中継(最終的には延期)。視聴率は22.8パーセントだった。その後もニュースステーションの中で中継を続け、こちらの視聴率はビデオリサーチが30.9パーセント、ニールセンが31.3パーセント。おひざ元の関西では、21時からの試合中継が46.9パーセント、ニュースステーションが46.4パーセントだった(ビデオリサーチ)。近鉄バファローズの戦いは、日本中の注目を集める伝説となった。

 翌20日、報知新聞に西武・森監督の手記も載っていた。優勝の喜びを書くことに「ためらいと困惑がある」と前置きした後、「身震いするほどの感動と、勝負の怖さ、非情さが胸を突き上げているからだ。それは近鉄の壮絶な戦いに対してである」「近鉄こそが勝者と呼ばれるのにふさわしいかもしれない」とあった。憎っくき敵将の最大級の賛辞である。

(週刊ベースボール別冊 よみがえる1980年代のプロ野球 パ・リーグ編より)

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